現金満タン、ハイオクで。

サブカルチャーがだいすき。ツイッターの延長なので詳しくはツイッターを見てくれ。

2019年6月に観た映画まとめ

映画いっぱい観ようというふわっとした目的を「死なない」とともに掲げてきたけど、たぶん一生その目標達成できない気もする。観たい気持ちに体がなかなか追いつかない。

以下あらすじとともに感想。ネタバレを含んだり含まなかったりします。

highb.hatenablog.com

 

 

高慢と偏見とゾンビ

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( 画像: https://eiga.com/movie/81859/ より)

感染するとゾンビとなる謎のウィルスが蔓延する18世紀のイギリス。片田舎で暮らすベネット家の5人姉妹は、裕福な男性との結婚を夢見ながら得意のカンフーでゾンビと戦う毎日を送っていた。ある日、屋敷の隣に資産家のビングリーが引っ越してきて、ビングリーの友人で大富豪の騎士ダーシーも出入りするようになる。舞踏会でダーシーと知り合い、色めきだつ姉妹だったが、次女のエリザベスだけは、ダーシーの高慢な態度に嫌悪感を抱いていた。そんな中、人類とゾンビによる最終戦争が勃発。ともに戦うことになったエリザベスとダーシーは、互いに自らの中で抱いていた偏見に気づきはじめる。(上記URLより引用抜粋)

gaga.ne.jp

有名な作品だけどずっと観れていなかったのでアマプラで観た。『高慢と偏見』の良いパロディー作品になっていて、でもそれを知らなくても面白く観ることができるかな~という作品。高慢と偏見と設定も名前もほぼ一緒なのだけど、それを知らなくても違和感なく観ることができるし、知っていたらなおのことパロディーとして面白い。さらに言うならマッシュアップ作品としての質がちょうどいい。観てないと分からないのも、観て居なくても楽しめすぎる(観た意味がない)のもよくないと思うんだけど、そこの塩梅がちょ~~どいい、気が、する。

初っぱなから惜しみなくゾンビを大量投入してくれるので観ていてスカッとするし、美人姉妹たちがコルセットとドレスの下にナイフを仕込んでいて、そのナイフを取り出してゾンビをバッサバッサと切り倒して行く様が最高。強い女が大好きだし、強い女が綺麗なドレスの下にナイフを仕込んでいるのが大好きなので観ていてゾッッックゾクした(^-^)強い女って最高では?最近は時代の流れかそういう強い女がかなり増えていて、『キャビン』でも「最近の女の子はしぶとい」とか言われてるけど、さらにそれがこの作品が「女は貞淑であれ」的な時代であるのでものすごくギャップがいい。

ゾンビ映画としてもバッサバッサ倒すから観ていてスッキリするし(ゾンビ映画にはここがすごく大事だと思う、『28日後…』みたいな人間心理に焦点を当てた作品も面白いけど乱発されると効果がなくなるから)、強い女がね~~~~やっぱり最高なんだよなぁ~~~~~私もゾンビがこの世に発生したら絶対ミラ・ジョヴォヴィッチになりてぇ~~~~~

あと「東洋の武術を、金持ちは日本で学ぶ(中国のが強そうだけど中国で学ぶのはランクが落ちる)」的な世界観だったんだけど、いま同じ映画がつくられたとしたら中国と韓国になるんじゃないかな?日本こんな扱いされるかな?って気持ちになった。今は金持ちが中国で学ぶ時代になってそうだなぁとぼんやり思いました。ヘケ。

あと見てたらキモオタ中学生のとき、バトル漫画とか読みすぎて、強い女になりたくて少林寺に入りたがってたの思い出してグサッときました。今も密かに憧れている。

(アマプラで鑑賞)

 

 ◆ ◆ ◆

 

『フリークス(怪物園/神の子)』

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本物の奇形・異形の人間が大挙登場する“伝説の”古典ホラー。サーカスの花形クレオパトラは遺産目当てから小人のハンスと結婚、彼の毒殺を図るが、その企みは見せ物仲間にばれてしまう……。アメリカでの公開時に、失神者が続出した、あるいは妊婦が流産したといったスキャンダラスな話題が続出、全米各州で上映禁止となるなど世界中で一大センセーションを巻き起こした映画史上に残る問題作。

( https://movies.yahoo.co.jp/movie/怪物團/4260/story/ より引用)

超有名作品ですが断片的にしか観たことがなく、ようやく通して観れました。とはいえ60分版のは完全版ではないのかな?昔の作品すぎてよく分からないのですが、、

こういう映画を「どう見るのが正解なのか」と考えてしまうのだけど、そう考えてしまうのが現代人らしいところなのかなと。
私が物心ついたときにはもう見世物小屋も小人プロレスもなかったし、よくも悪くも遠巻きに腫れものみたいに扱ってしまうのが事実だなぁと思う。だって差別者扱いされたら嫌だし、他人のこと傷つけたくないし、理解したいけど、自分の行動で傷つけるくらいなら腫物扱いにしちゃう。現代人ってやっぱりそうだし、差別者扱いされたくないし。かっこいいこと言えたらいいけど言えないし。
一回知的障碍者っぽい人がお店でヤンキーに絡まれて馬鹿にされてた場面に遭遇したときに(地元は民度が低いのでそういうことが起こります)、かっこいいこと言えたらよかったのですが、ヤンキーこわいしたまに若干吃音になる癖のせいでメチャクチャどもりながら「そ、そ、そ、そういうのやめときましょうよ…………」しかいえなかったの超後悔してて、武勇伝にも人助けにもなってないじゃんって未だに思い返しては唸ってます。
そういうことを思い返してしまったのですが、この作品自体は非常に単純明快、きっと出演している「フリークス」の人たちも問題提起する気持ちは恐らくそんなにないんじゃないかなと思います。ストーリーも分かりやすい勧善懲悪的な、悪いやつがこらしめられて終わり~みたいな。分かりにくい点はないし、ものすごく単純で分かりやすい構成です。ただどうしてもそれを「どう見るか」って考えてしまうんですよね。
見世物小屋にものすごく行ってみたくて一時期熱心に調べていたのですが、現在ある見世物小屋はやっぱりびっくり人間ショー的な形態になっていて、「フリークス」の展示は行っていないようです。まあそりゃそうなんだけど。『フリークス』を見たかったのも単純なゲスい好奇心からだし、でも多分視聴者の多くは最初の動機はそうだと思う。そしてそのゲスい好奇心はちゃんとこの映画で満たされると思う。みんな未解決事件とか調べちゃうじゃないですか。実際に死んでる人間がいるのに、好奇心でそういう事件を見ちゃう。コンクリ事件とか何万回擦られたんだってくらい話題にされてるし、未解決事件なり残虐な事件なり、自分に害の及ばないものなら、そういう「ヤバいもの」ってめっちゃみたいのが本心だろうし。ストロベリーナイトの導入みたいになったけど。
でも探偵学園Qケルベロスがおんなじこと言ってたし、それって悲しいかな事実だよなぁ~~と思いながらこの映画を見始めました。
今は都会に行けば、きっと働いているのであろう小人症の人や手や足のない人をよく見かけるので、多分当時と同じショッキングさって得ることができないと思う。当時妊婦が流産したってマジかは知らないけど、そういう噂がでるほどショッキングだったことは間違いないのだろうし。

な~~~~んか難しいな~~~~と思いながら観てました。わからん!

 (アマプラで鑑賞)

 

 ◆ ◆ ◆

 

 『空母いぶき』

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( 画像:https://eiga.com/movie/88802/

世界が再び「空母の時代」に突入した20XX年。日本の最南端沖で国籍不明の軍事勢力が領土の一部を占拠し、海上保安庁の隊員を拘束する事態が発生。未曾有の緊張感に包まれる中、政府は初の航空機搭載型護衛艦「いぶき」を中心とした護衛艦群を現場に派遣するが……。(上記同URLよりあらすじを引用抜粋)

kuboibuki.jp

ふつうに面白かった!私はシンゴジラみたいな政治映画の色があるものや、戦争や軍関連で命令が下っていくシーンがある映画が大好きでよく観るのだけど、これは自衛隊だからか生々しくて観てると「あ~~~あ~~~戦争はいかんよ~~~~難しいよ~~~~」みたいな気持ちになっちゃってしんどかった。膀胱もしんどかった。(ちなみにこの映画は某映画館で観たのですがそこの映画館にいると必ずと言っていいほど尿意が凄くなり映画に集中できなくなるので、あの映画館の飲み物には利尿剤が入れられてる説を半ば信じています。)

なかなか邦画にしては頑張ってたCGじゃないかな~と思う。おそらくこれが中国や米国であれば100億を超えるものすごい予算でド派手にかませたのだろうけど、日本ではそこまでの予算がないため(たぶん)、CGのできは「頑張ってるB級映画」並。だけど頑張ろうという気概は見える。がっかりCGなんだけど、予算がおりない中頑張って作った感があるので叩くのは忍びない。

正直本田翼ちゃんの演技が棒で気になりすぎてそこだけミスキャストだから変えてほしかった感はある。

予算が下りないなりに頑張ろうという気概は見えたのでクオリティを叩くのは忍びない気持ちになってしまう作品。

 

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ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』

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(画像:https://eiga.com/movie/88330/

日本が生んだ怪獣王ゴジラをハリウッドが映画化した「GODZILLA ゴジラ」(2014)のシリーズ第2作。前作から5年後の世界を舞台に、モスララドンキングギドラなど続々と復活する神話時代の怪獣たちとゴジラが、世界の覇権をかけて戦いを繰り広げる。また、それによって引き起こされる世界の破滅を阻止しようと、未確認生物特務機関「モナーク」に属する人々が奮闘する姿を描く。(上記同URLよりあらすじを引用抜粋)

godzilla-movie.jp

パワー!!!!!!!!!!!破壊!!!!ドン!!かっけー!!!!って感じの映画。ゴジラは!!!かっこいいんだ!!!!という思想が果てしなく伝わってきた宗教映画だった。

あとマジでイカれた大人しかいない、モンスター思想のぶつけあい映画。

詳しくはリンクの記事に書いてます。

highb.hatenablog.com

 

  ◆ ◆ ◆

 

『パニック・マーケット』

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 (画像:https://eiga.com/movie/58043/

外界から隔絶されてしまったスーパーマーケットで、次々と絶体絶命の危機に襲われる人々の姿を3Dで描いたサバイバルパニック。大洪水にのみこまれ、一軒のスーパーマーケットに閉じ込められた13人の生存者たち。水浸しの店内には高圧電線が垂れ下がり、水中からは巨大な人食いザメが襲いかかるなど、次々とピンチが訪れる。さらに、13人の中には強盗殺人犯が紛れ込んでいることがわかり……。(上記同URLよりあらすじを引用抜粋)

邦タイトルが馬鹿っぽいので勘違いされちゃうけど、凄くちゃんと作られた密室型サメ映画。サメがシックスヘッドになって凶暴なもみじ饅頭になるのも面白いけど、こういう王道な「サメの恐怖」を描いているのは非常にいい。

狭い空間の中からエスケープするという点で非常にホラーテイストな要点を押えていて、サメはいわば殺人鬼のようなポジションとして機能してる。3Dになってるので少しCGがわざとらしいけど、スーパー内でのCGはさほど気にならない。

ティナ役の人って『サプライズ』のヒロインの人?かな?垂れ目でかわいらしい顔立ちなのにスレンダーで凜々しい雰囲気があるので、こういう緊迫した映画で非常に味の出る女優さんだな~と思います。ゾンビがこの世界に蔓延したら私はミラジョヴォヴィッチになりたい、それくらい「そういう女」が大好き。

あと犬は死にません。

(アマプラで鑑賞)

 

  ◆ ◆ ◆

 

『キングダム』

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 (画像:https://eiga.com/movie/89983/

元前245年、春秋戦国時代の中華西方の秦の国。戦災孤児の少年・信と漂は天下の大将軍になることを目標に掲げ、日々の剣術の鍛錬に励んでいた。王都の大臣・昌文に召し上げられた漂が王宮へ入り、信と漂はそれぞれ別の道を歩むこととなる。(上記同URLよりあらすじを引用抜粋)

kingdom-the-movie.jp

 えっ……わるくない……よね……?ていうか結構良い、よね……?と驚いた一作。
山崎賢人の演技力及びアクション力を含めた総合的俳優力がめきめき上達してるのは恐らく世間も『グッドドクター』で気付いたと思うのですが、それが爆発してた。彼はイイ意味でカメレオンすぎないのがいい。ちゃんと役になりきりつつもみんな「山崎賢人だ」と分かるのがいい。主役格であり続けられる人なんではないかなと思う。本作でもお上品な顔立ちをワイルドな顔立ちに変貌させているのに、ちゃんと日本国民みんな彼だってわかるのが強みだと思う。
あと吉沢亮べらぼ~~~~~~~に綺麗でひっくり返った。マジ?彫刻では?いや私は逆張りのオタクなので吉沢亮の顔が綺麗とか褒めるのメチャクチャ恥ずかしいという中学生を心の中に飼っているのですが、それでもべらぼ~~~~~~に綺麗でかっこよくて堂々としていてひっくり返った。あんたが王さまや……。
内容は原作をどうにかうまいことまとめられていたと思うし、アクションも泥臭さがちゃんと出ていてしっかりしている。山の民のシーンのCGも悪くないし、これは日本が本気で海外マーケットに売り込もうとしているのが伝わって来た。その製作陣と俳優たちの熱意とガチを感じるだけで胸が熱くなったのでエモエモ映画に感じてしまった(大人が本気になってる映画が私は好きです)。いやまあ今更海外マーケットって重役出勤でしかないんだけど。でもよい意味で中国や韓国のみならず東南アジアなどアジア圏で切磋琢磨していけたらいいな……文化に国境はないから……そういう文化の交流が世界平和への一歩だと思う、思うよ……といろいろかんがえながら観たんすけどまじで膀胱はしぬかと思った(例の映画館)マジでぜってぇ利尿剤だろ

 

  ◆ ◆ ◆

 

 『ザ・ファブル

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(画像: https://eiga.com/movie/89401/)

超人的な戦闘能力を持つ伝説の殺し屋ファブルは、育ての親であるボスから、1年間殺し屋を休業して普通の人間として生活するよう命じられる。もし誰かを殺したらボスによって処分されてしまうという厳しい条件の中、「佐藤アキラ」という偽名と、相棒ヨウコと兄妹という設定を与えられ、大阪で暮らしはじめたファブルは、生まれて初めての日常生活に悪戦苦闘。そんな中、偶然知り合った女性ミサキがある事件に巻き込まれたことから、ファブルは再び裏社会に乗り込んでいく。(上記同URLよりあらすじを引用抜粋)

the-fable-movie.jp

例の映画館で見たらまた膀胱死にかけたんだけどマジで何??マジで利尿剤か??

予告編での『世界基準アクション!』という煽りに「なるほどやっぱりちょっとコンプレックスなのか」と思い、気になって観た本作。
岡田准一なのでアクションは不安を抱かず見たのですが、ちゃんと予想していたものが出てくる感じ。餃子定食頼んだら餃子定食がちゃんとでてきたというのは映画において意外と難しいハードルで、ラーメン餃子定食は出てこないので全体的にコンパクトな印象ではあるけど、それなりに楽しめる一作。
ところで人の命がちり紙以下少子高齢化のこの社会で容赦なく人を殺す。しかもここはアメリカか???ってくらいのドンパチ。ぜってぇ近隣に銃撃戦の音聞えてるんだけど町は平穏に日々を過ごしているので大阪の名誉が問われる。実際の大阪はああではないです。ヤクザもあんなに堂々と闊歩しません。
これ外国人に見せたらマジで大阪勘違いされそう。

 

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『ハウス・ジャック・ビルト』

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(画像:https://eiga.com/movie/90524/

ダンサー・イン・ザ・ダーク」「ニンフォマニアック」の鬼才ラース・フォン・トリアーが、理性と狂気をあわせ持つシリアルキラーの内なる葛藤と欲望を過激描写の連続で描いたサイコスリラー。1970年代、ワシントン州。建築家を夢見るハンサムな独身の技師ジャックは、ある出来事をきっかけに、アートを創作するかのように殺人を繰り返すように。そんな彼が「ジャックの家」を建てるまでの12年間の軌跡を、5つのエピソードを通して描き出す。殺人鬼ジャックを「クラッシュ」のマット・ディロン、第1の被害者を「キル・ビル」のユマ・サーマン、謎の男バージを「ベルリン・天使の詩」のブルーノ・ガンツがそれぞれ演じる。カンヌ国際映画祭アウト・オブ・コンペティション部門で上映された際はあまりの過激さに賛否両論を巻き起こし、アメリカでは修正版のみ正式上映が許可されるなど物議を醸した。日本では無修正完全ノーカット版をR18+指定で上映。(上記同URLよりあらすじを引用)

housejackbuilt.jp

すげぇ「俺(私)は真のリアルを描きたいんだ……!!」とおもってる美大生とかにメチャクチャウケそうな映画
監督の時点で察せられるけど、救いとか社会的倫理感とかそういうものは一切ない。あえて全てが省かれている。グロさはR18+程度で、こういった映画が好きなら吐きそうとかそういうことはないと思う。恐らくアメリカで物議を醸したというのも「グロすぎる」というよりは「反倫理的過ぎる」という理由ではないかと思われる内容。私はキリスト教徒ではないので分からないけれど、おそらくキリスト教圏ではあまりに反道徳的で反倫理的な「哲学」に従って行われる、しかも女性や子供がターゲットになる殺人ということで、問題なのではないかと。小難しい哲学映画や「リアル」が好きな人には非常にウケそうだし、一定数マニア的ファンを獲得し続ける映画なのだと思うけど、私はうっかり『悪の教典』を期待しちゃっていたので斜め上のものが来て驚きました。
殺人方法が痛々しくて生々しく見ていて疲れる。基本的に被害者の名前や関係性は明かされずオムニバス的に殺人シーンのみ5つ連続して描かれるので「え?今いつでこれは誰?」ってなりがち。そういった意味でも抒情的、殺人哲学に絞った反倫理的映画。でも普段は得られないいい映画体験だったと思う。

あとロゴが死ぬほどかっけぇです。

 

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ジグソウ:ソウ・レガシー

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(画像:https://eiga.com/movie/87492/

ある密室に男女5人が監禁される。5人は目の部分をくりぬいたバケツを頭にかぶせられ、身体は鎖につながれており、対面する壁には一面に鋭い刃が光っていた。一方、刑事のハロランとキース、検視官のローガンとエレノアは、町中の公園で発見された死体を検証していた。死体の無残な様子から10年前に死んだはずのジグソウの手口が浮かび上がり、死体に埋め込まれていたUSBメモリを確認すると、「ゲームは始まった。4人の罪人が犯した罪が償われるまで終わらない」というジグソウの声が響きわたる。(上記同URLよりあらすじを引用抜粋)

jigsaw.asmik-ace.co.jp

シリーズは一通り観ていたけどこれは観てなかったので今更鑑賞。
オチは予想できてしまったけど、SAWに求める「らしさ」は詰まっていたので、良いファンアートを観たという感覚。SAWに求めるのは殺人ピタゴラスイッチと不条理なグロとどんでん返し。1を超えるあのワクワクは得られないけど、SAWはB級独特のピコピコテロテロした音楽並にあの音楽が鳴るとワッッックワクするので大好き~~~実質スターウォーズジュラシックパークだよ。

(アマプラで鑑賞)

 

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『パージ:エクスペリメント』

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(画像:https://eiga.com/movie/89476/

1年に一晩、12時間だけ全ての犯罪が合法化される法律=「パージ法」。シリーズの核となるこの法律がなぜアメリカで施行されることとなったかが描かれる。経済が崩壊した21世紀のアメリカで政権を握っていた新政党NFFAは犯罪率を1%以下に抑えるため、1年に一晩だけ殺人を含むあらゆる犯罪が合法となる「パージ法」の採用を決める。反対デモが巻き起こる中、アメリカ全土での適用を前にニューヨークのスタテン島内のみで実験的にパージ法を施行することが決定する。島に残る島民には用意された賞金は5000ドル。島の住民たちが不安を抱える中、ついにパージ当日がやってくる。そんな中、ギャングのボスであるディミトリーは、愛する人を守るためにスタテン島に残ることを決意する。(上記同URLよりあらすじを引用抜粋)

purge-exp.jp

みんな大好きパージ。

イカレた住人、世紀末、殺人マスクに「これに巻き込まれるのマジでぜってぇ嫌だ」感、紛れもなくこれがパージ私が政権を握った暁には絶対に実現させたい法案ナンバーワンことパージ。終わったあと近くの女子たちが「いやはや今回もマスクが良いデザインでしたなw」と昔のオタクみたいにしゃべっていたのがこわくて若干半泣きになりましたが、それを差し引いても(?)求めていたもので超良かった。実験段階だから仕方ないのかもだけど、もっとトリッキーなマスクと殺人シーンを増やしてほしかったのが本音。仕方ないけどね。

実験といえば、正直あんなトンデモオモシロ法案のくせにちゃんと実験をしていたのが爆笑ものなのですが、さらにその実験を大まじめに提唱する科学者のイカレっぷりが凄い。正直政権のことを考えて動いている偉い人たちはまあまだ理解できるとして、あんなイカレた実験を科学の名の下に提唱するやつ一番頭おかしいし、途中で常識人ぶってたけどシリーズを通して元凶お前やんけ!!!!となった。

そして報酬金額がたった5000ドルぽっちという点で、日本人は「逃走中のが高いやんけ!!!」となるので感情移入がしづらかったのが難点。これは日本人だからだけど。

でもやっぱりパージは最高なのです。怒りを解放しよう。

 

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僕のワンダフル・ライフ

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(画像:https://eiga.com/movie/86388/

飼い主の少年と再び巡り会うため生まれ変わりを繰り返す犬の奮闘を描いたドラマ。ゴールデン・レトリバーの子犬ベイリーは、自分の命を救ってくれた少年イーサンと固い絆で結ばれていく。やがて寿命を終えたベイリーは、愛するイーサンにまた会いたい一心で生まれ変わりを繰り返すようになるが、なかなかイーサンに遭遇できない。3度目でようやくイーサンに出会えたベイリーは、自身に与えられたある使命に気づく。(上記同URLよりあらすじを引用抜粋)

 クッッッッソ泣いた。いぬ飼ってるのに泣かないやつおる?血かよってないのでは?

何がえぐいってアマプラで観るとレビューが「亡くなった愛犬との思い出」一覧になっているので二度泣く。私は冒頭5秒くらいでマジで泣き始めて最終的にはおんおん泣いていたのですが、終わって涙がひいたころにレビューをみてしまい泣く。なんならレビューだけで泣ける。いっぱい泣いてリフレッシュしたい人にはとてもとてもお勧めできる映画最終的にはハッピーエンドだしね。死んでも「よっしゃ次やで!」と前向きに生きるいぬがいいし、「未来を心配しすぎず今を楽しんで生きよう」という現代社会で生きる我々からしたら泣いてしまうメッセージを最後に込めてくれる。いぬからそんなこといわれたら泣きますよ。そりゃそう。

わたしのいぬもこうやって生まれ変わって来てくれたらいいなぁと書こうとしたマジでこの今泣いてるからな

(アマプラで鑑賞)

 

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メン・イン・ブラック』『メン・イン・ブラック2』『メン・イン・ブラック3』

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(画像:https://eiga.com/movie/50102/photo/

ニューヨーク市警の若き警官ジェームズは、追跡していた犯人を目の前で逃してしまうが、そこへ黒服の男「K」が現れ、逃がした犯人が宇宙人であったことを知らされる。Kはジェームズの素質を見込んでMIBにスカウトし、ジェームズはMIBの新たなエージェント「J」としてコンビを組んで活動を始める。一方その頃、地球壊滅を企む昆虫型エイリアンが地球に侵入し、不穏な動きを見せはじめて……。(上記同URLよりあらすじを引用抜粋)

こんな名作を今更みてごめ~~~~~ん!許してアメリカ!許してスピルバーグ

もう感想とか省くけどSFコメディなので気楽にみれたし超良かったよ!スピルバーグええ映画撮るやん!

(アマプラで鑑賞)

 

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『ゾンビーワールドへようこそ』

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(画像:https://eiga.com/movie/84580/

冴えないボーイスカウト3人組がゾンビの大群と死闘を繰り広げるサバイバルスリラー。高校生になってもボーイスカウトを続けているベン、カーター、オギー。女の子に興味津々のベンとカーターはボーイスカウトを辞めたがっていたが、真剣に取り組むオギーにそのことを言い出せずにいた。そんなある日、思いがけずパーティに誘われたベンとカーターはキャンプを抜け出して会場へ向かおうとするが、その途中でゾンビの大群に出くわしてしまう。ピンチに陥ったところをストリップバーのウェイトレスに助けられ、オギーとも合流した彼らは、ボーイスカウトで身につけた様々な技術を駆使して凶暴なゾンビたちに立ち向かう。(上記同URLよりあらすじを引用抜粋)

青春ゾンビ映画!B級なタイトルやポスターとは裏腹に、特殊メイクはしっかりしているし、少年たちがゾンビとの戦いをとおして成長していく過程もしっかり描かれていて良い。コメディ要素も『ショーン・オブ・ザ・デッド』『ゾンビランド』ほどではないものの多く含まれていて気楽にみれ、死なないであろう人は死なず死にそうな人はちゃんと死ぬというカタルシスもきちんと含まれている。正統派なスッキリとしたゾンビものに正統派な青春ものが合わさっていて非常に満足度の高い名作

『アナと世界の終わり』もそうだけど、こういった青春ゾンビやゾンビコメディに名作が多いのってなんでだ?意外とゾンビと青春って相性がいいんだろうか。そう考えるとセカイ系には学生がつきものだし、大なり小なりアポカリプスと青春というものは切っても切り離せないものなんじゃないかなぁと実感した一作。

(アマプラで鑑賞)

 

◆ ◆ ◆

 

今月は邦画を多く観たけど(当社比)、いずれの作品も頑張っていて、日本がまじめに海外展開を夢見てるのかなぁと思いました。まだまだブラッシュアップできるところもあるけれど、少しずつ日本映画の再興は進んでるんじゃないかな?そう思う映画が増えているように感じます。もう公開されていますが『新聞記者』もすごく楽しみです。
来月も色んな映画観れたらいいな~~~~~!

 

「書く」ことについての所感(及びナマモノ論争における所感)

ブログ名や小説タイトルの由来をたま~~に聞かれます。困る。

というのも説明するのが恥ずかしいからです。

一応このブログの紹介頁に由来は少し触れているのですが、

highb.hatenablog.com

ブログ名については、穂村弘が好きだったので、なんとなく穂村弘の短歌に出てきそうな感じの単語を考えてつけました。なのであえてレギュラーではなくハイオクにしたほうがそれっぽいかなと思ったのですが分かりません。「ハイオク満タン、現金で」をひっくり返してちょっと日常のなかにパラレルワールドはあるんだよ的な意味合いも込めたかったのですが本当に1mmも深い意味がありません。

 ね、恥ずかしいでしょう、この由来。

正直つけたときは深夜だったんだと思います。じゃないとこんな恥ずかしいタイトルつけないですよね。みんなの羞恥を煽ってしまいすみません。

穂村弘が好きなのはまあ無難だしいいんですけど、ですけど、そんなら彼の作品を引用するなりなんなりすればいいのによりによって「ぽいのを考える」とか、ハッッッズ……いや、はず、はずかしくないですか。わたしは恥ずかしいです。でも今更変えられないしそこそこ気に入っている私もいます。穂村弘の日常のあたたかみのあるあっけらかんとした感じと毒が共存する雰囲気が好きで凄く影響を受けているのですが、その「毒」をね……いれたかったんですよね……はずかし~~~~~!

その「毒」部分が、日常の歪として現れるパラレルワールドのスイッチで、そういうものが世の中には案外あるんだぞ……てきな……。啓蒙するようなきもちがなかったのが唯一の救いなのですが、そういう自分のなかのポエミーさが顔を覗かせまくっているこのブログタイトルを半永久的に使うことになっています。でも気に入ってる自分もいるんですよね。はずかしい。

 

以下は私が書いた小説のタイトルの一部です。(自意識過剰なので小説という言葉を使うのは恥ずかしいです)(小説と呼ぶとハードルが上がる感じがして)

 

『無敵』(【腐向け】「【つるいちつる】無敵」/「BUN太」の小説 [pixiv])/幼少期に埋めた死体が真夏に見つかる話。言い切りの単語でなおかつ重要な台詞の一部であればかっこいいかなと思った。このタイトルにしたくて書いた。少年少女独特のあの「無敵」感が好きだった。

『アンダー・ザ・リング』(【あんさん腐るスターズ!】「【まこいずまこ】アンダー・ザ・リング」/「BUN太」の小説 [pixiv])/死体を埋める話。ノリで決めたタイトルなので思い入れがあまりない。

『2205年のノストラダムス』(刀剣乱腐】「【つるいち】2205年のノストラダムス」/「BUN太」の小説 [pixiv])/地球に隕石が落ちてくる話。全然ポエミーじゃないのであまり気に入っていない。まんまやんけと未だに思う。ポエミーじゃないのもそれはそれで恥ずかしいので、もうなんでも恥ずかしいのだと思う。

『三尸虫の告解』(【刀剣乱腐】「【燭へし】三尸虫の告解」/「BUN太」の小説 [pixiv])/罪を告白する話。わりとそのままのタイトルなのでnotポエムだと思っている。

『次にあなたが目を開けたとき、(【あんさん腐るスターズ!】「【宗みか宗】「次にあなたが目を開けたとき、」/「BUN太」の小説 [pixiv])/ラノベっぽいタイトルにしようとしたのでnotポエム

『ため息ひとつで天使が一匹死ぬ』(【あんさん腐るスターズ!】「ため息ひとつで天使が一匹死ぬ」/「BUN太」の小説 [pixiv])/フランスかどっかのことわざをひいてきているのでギリポエムではない

公表はしていない、もしくは公表を取り下げたものとして『8月32日の虫』『結び、弾き、ほどき、結び、』『悪癖。』『私はあの夏の下に埋まっている』『地球はXとYで膨張する』とかがありました。今タイトルだけ見返したらはずかし!となるのですが、大真面目に考えたので笑わないでください。

以上、ブログタイトルと小説タイトルについての話でした。

以下少し話が変わります。

 

基本的に私はポエミーな人間です。

highb.hatenablog.com

 だがたとえ死ねない体になろうと、化け物になりはてようと、殺してきた罪の対価や殺すことへの覚悟にはなりえない。
死はそこで完全なる遮断である。永遠の無である。生きることは死ぬことの対価には決してならない。

ですね。書いてるときは基本的にノリノリです。もう「超ええ文章やんけ!」って思ってます。基本的に自己愛が強い人間だし、これを言うと誤解を招くかもしれませんが、自己愛が強くないと、正確には自己への肯定の構築を求めていないと、文章を書こうとは思わない気がします。ブログにしろ小説にしろ。まじめな話をすると。

私は門外漢で詳しくないのですが、心理療法で「小説を書く」というのがあると聞きます。確かに効くだろうと思います。

作家の川上弘美さんが自身の書く小説を「うそばなし」と呼んでいるのを見て、妙にしっくり来たのを覚えています。

「うそ」の国は「ほんと」の国のすぐそばにあって、ところどころには「ほんと」の国と重なっているぶぶんもあります。「うそ」の国は、入り口が狭くて、でも奥行きはあんがい広いのです。(中略)小さい頃から「うそ」の国でしばしば遊んできたので、あんまり他の遊び場所を知りません。もしも「うそなんて、だめよ」と禁止されたら、からだをこわしてしまうかもしれません。(川上弘美『蛇を踏む』文春文庫1999・8・10より「あとがき」から)

文字にした時点で完全なノンフィクションは不可能で、自分の思いであろうと言葉にした時点で少し形が変わってしまうものだと思います。そういった意味で、フィクションであろうとノンフィクションであろうと「うそ」であることは事実で、その「うそ」を書くことで自己の肯定の構築をはかる人が大なり小なりいるのかもしれないなぁ、と最近思います。

散々ポエムだどうだと言ってきましたが、私はポエミーなところが好きです。自分で書いたものを恥ずかしがるのは、日本人の美意識とかいうものにはそぐわないかもしれませんが精神衛生上あまりよくない行為のように思います。二次創作なんて高尚なことは何も考えずにやっているものですが、それでも、どんな媒体でも、どんな内容でも、自分の書いた文字は何かしら自分の想いの切れ端であるし、それを「恥ずかしがる」ことによって否定しちゃうのはきっとよくないんだろうなと。

おもってるけどはずかし~~~~~んだなこれが!

 

けど、どんな媒体であれ書くことには責任が生じると思っています。語ることの危うさと言い換えてもいいと思います。

 

1951年にアドルノのいっていたことをおもいだすときがあります。

アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である 

これはナチスの話が絡んでいるし、啓蒙の中になぜナチズムが萌芽したか?あの惨禍のあと我々が純粋に芸術を楽しむことはできるのか?許されるのか?的なむずかし~~いお話が絡んでいるので置いておきますが、ともかくこれを初めて読んだ時「ガーン」という感じがしました。ちょうど『美しい顔』の問題も相まって、東日本大震災を直接体験していない人間がそれを語ることは許されるのか?という、文字における「当事者性」が再び問われていたときに、私はアドルノの言葉を読んだからです。

この震災における「当事者性」を超越するために頑張ったのが、いとうせいこう『想像ラジオ』であると思いますが、ともかくちょうど私が「書くことは野蛮なのか?」と考えていたときでした。

この「書くこと(語ること)」の危うさや野蛮さの危険視って、趣味でやってるだけの二次創作だから関係ない~とかそういう次元の話じゃない気がします。私含め多くの人は難しいことも高尚なことも考えずに、ただ「萌え」の発散で創作をしているのは重々承知なのですが。世間に向けて「文字」の形でなにかしらを発信した時点でそこには責任が生じるし(それは権利という次元でも、「書くこと」そのものへの責任といういみでも)、責任を負う覚悟がやはり必要なのだと思います。それは小説に限らず、いちツイートでも。

少し話がずれますが、私はツイートは文学たりえると思っています。ツイートを利用したSSは既に創作も二次創作も多く行われていますし、そうでなくても、ツイートは一種の手紙のようなものであり手紙が文学たりえるならツイートも文学たりえると感じています。手紙は文学であるとベンヤミン『ドイツの人々』の存在を知ったときに思いました。(これに限らず、有名な作家や偉人の手紙は文学として本になり出版されている事例もあります)

ともかくツイートというものも「書く」ことの責任というものが存在するのだと思っています。

私も過去に書いたものを見ていたら、「ああ今思えばこれって差別だな、偏見だな」とか思うことが大なり小なりあります。二次創作だから許されるってことでもないんですよね。この差別や偏見には分かりやすい形での「責任」があるなと思います。形而下化された責任です。

とにかく媒体やその背景に関わらず「書くこと」にはどうしてもセンシティブなものがつきまとう、ということが言いたかったです。

 

最近「ナマモノ(実在する人物同士のCP)は隠れるべきだ」論争が激しく、まあ基本的には概ね同意なので特に言及することはないのですが、こういった論争を見ていてぼーっと思ったことがあります。

ネットは「書くこと」へのアクセスを容易にしました。恐らく人類史上、今までで一番、「書いて」「発信する」ことが密接化していて、言ってしまえば「書く」と「発信する」が同義になっているような気がします。ツイートも書くイコール発信する、だし。だけど(だから?)「書く」ことへの責任というのは「発信する」の責任と一緒になって、より分かりやすい形で私たちの目の前にある気がする。

ただ見ていて思うのは責めてる人と責められている人の会話がマジでかみ合ってないなということ。というのも恐らく責めている人は「他人のセクシュアリティを勝手に描くな」という「書く」ことの当事者性の話を主にして、そのうえでゾーニングという「発信する」ことの話をしているのに対して、責められている人はゾーニングの定義という「発信する」ことを中心にして話をしている気がする(あくまで私の観測範囲では)。

これって「書く」「発信する」が密接化して同義になりつつある今のネットだからおこっちゃうのかなぁとたま~に思います。実際どうかは知らんけど。

結局ナマモノの話で大事なのは「当事者性」とその上でのゾーニングという「書く」「発信する」の2点であって、だけどここがグチャグチャだから人によって意見が割れて(というか話す前提が変わって)うまく話し合いが進まないのでは、と思うときがあります。

ゾーニングはもちろんあらゆる対象において必要とされるものなのですが(身近ではコンビニのエロ本とか)、この「当事者性」についてはまだまだ話し合いが未発達なのだとも感じます。しかもそもそも当事者性って難しくて、例えば震災では「亡くなった被災者の人」は当事者だけど「生きている被災者の人」は当事者であったり非当事者であったりする。ナマモノにおいては「本人」が当事者なのだとして、その本人が「●●君とのCPかいていいよ!」って言ったところでこの論争は絶対終わらないだろうし、そう考えると当事者の範囲ってなんだ?ゾーニングってなんだ?そもそもこの論争ってなんだ?と頭がこんがらがってしまう。難しい。だから一向に終わらない論争なんだろうけど。

ともかく「発信する」とともに「書く」には責任が負うし、自由には「責任」が残念ながらつきもので、そのうえで楽しんでやっていきたい。という話がしたかった。

私はこれからもうんうんと唸りながら「書くこと」の危うさや責任について、できるのなら全うしていきたいなぁと思う。

ネット社会が「書くこと」へのアクセスを容易にして色々と責任を生んだのかもしれないけど、やっぱりネットがあるからこそ生まれた文字が本当に本当にたくさんあるので、一概に良い悪いとは言えないし、やはり新しく生まれた「自由」には新しく生まれた「責任」が伴ってしまうのだと思う。

とりあえずみんな「発信」の責任は全うして、アイスケースに入ったりバカッターはやめよ~~~な!(^-^)

加州単騎アジアツアー2019を振り返る日記

本日6/25に加州単騎2019のアーカイブが配信された。それを観ていたら色々思い出したので、当時の所感を残しておきたいなと。思って。

 

私は佐藤さんのおたくではないので日本公演のみの参加となった。

ま~~~~まず始まるまでやさぐれてた。というのも「刀ミュくんが何考えてるかわからないょ。。。。」的な状態になっていたからだ。


まず紅白を終えて、刀ミュは次の目標へと向かう第二章に入るとなんだか偉い大人たちが言っていた。そりゃあいいことだと私。けれどもその「大事な第二章の始まり」でなぜ再放送同然のみほとせを再演するのかが私には分からなかった。刀ミュくんに求めているのは果てしないワクワクと目新しさであり(まあ私の一方的な感情なのですが)(オタクはわがままなので)、新作を一年半も待たねばならない理由がよく分からなかった。コンテンツの成長を考えるなら新作をやるべきではないかと。まあそれはオタクのわがままとも言えてしまうのですが。
加えて単騎2018のCDが2019のあとに発売と知り、なんかシンプルに「商業的になに考えてるか分からん」となった。

2019が2017と2018の総まとめであることはすでに海外公演に参加していたおたくから聞いた。果たしてそれで単騎をすることに意味はあるのだろうか、と思ってしまった。
だけど日本公演しか参加していない私はアジアツアーの内容をどうこう言う資格はないとも思っている。現場に行かないのなら文句はたらせない。なので心の中にもやもやをためたままの幕張となった。

 

当日。
なんだかんだで浮かれオタクなので「アモーレだし頭にバラでも作るか~!」と新宿のいつものサロンでセットしてもらった。予約した時間まで少しあったので、大森靖子を聴きながら無意味にHALの周りをぐるぐるして時間をつぶした。私は自意識過剰おたくなので、刀ミュや俳優が好きということがバレるのが嫌で、その日はキスマイのおたくの振りをしてサロンを乗り切った。キスマイの質問をふられてもよく分からなかったので、たぶん嘘はバレている。かなしい。
新人さんだったのかバラはすぐに崩れた。なんか幾重にもなっている「何か」になってしまった。それもあって割とやる気は低めだった。


本番。
目下の私の悩みは「これ立ってええんか?」だった。周りのおたくもざわざわしていて、耳をすませば「これ立ってええんか?」という話をしていた。悩むよね。わかる。そこで会場アナウンスで「観劇の際は背中をつけて前のめりにならず~」という聞き慣れたものが聞こえ、会場中が「あっ観劇パターンね!」となったのを感じた。正直幕張だしライブだし立ちてぇな~~~座るんか~~~というおきもち。
が、始まってみると、数曲目で加州が「立って!」的なジャスチャーをしていた。おたく困惑。その後MCにて「立ってってゆったの!」的な発言があり、そこから全員起立。いや立っていいんか~~~~~いアナウンスと連携とってくれマジで~~~~~となったが、

まあその、結論から言えば「やっぱ最高じゃん」だった(ちょろおた)

正直「え~~~~刀ミュくんやっぱアタシのこと愛してんじゃん!!!(にやける顔文字)」だった。

内容が総まとめであることは否めないが、アジアでやるということをメインに据えているため、海外の人からしたら初見なので総まとめなのはむしろ好ましい「大きな展開をしてほしい」と言いながら無意識のうちに海外の人目線など広い視野で考えることを忘れていた。そういう自分を、コンテンツのこと好きって言いながら自分の思い通りであってほしいだけじゃん、と恥じる。けれども自分の思い通りになってほしいと思うこと自体は悪ではないので、これからもひっそり内心そう思い続けるが、ちゃんと広い視野で物事を考えたいなぁと心底思った。反省します。

とにかくうまく言えないが、なんか普通に楽しかった。やっぱりこのコンテンツが好きだしずっと応援したいし願わくば来年も単騎してほしいな~~とおもた。
ライブ!!!派手!!!加州清光です!!!!楽しめ!!って感じ。

幕張を一人で埋められるのはすごい。かつては6人でプレライをしていたのに、今や1人で幕張を埋められるコンテンツになった。そこにはおたくの応援も、佐藤さんの努力も、スタッフさんたちの支えもある。そういう多くのことが重なって今に繋がっていることをなんだかすごく尊いなと思った。
初めてトロッコ(ムーヴィングステージ)が出たのも、遠くの人にまでちゃんと観て貰えるようにという配慮を感じたし、ちゃんと真剣にコンテンツやってるジャンという思いになった。


終わってアパホテル
幕張でライブがあったときはあのアパホテルにおたくが大量発生する。荷物を預けるときにクロークの人に「こいつもおたくか」と思われていないかどきどきしてしまう。事実なのだが。
ちなみにあのアパホテルはライブがあるときはいつもなぜか5000円ジャストだ。払いやすくて有り難い。ちなみにこのときアパ直に入ったがその後一度も利用していないので意味が無い。アパホテル時期によっては意外と高いんだよな。京急インとかヴィアインのほうが意外と安かったりする。アパに一万は払いたくないと思ってしまう。たぶん出張の多い父にアパの悪口をすり込まれているからだ。
ソワレが始まるまでカレードリアを食べた。窓の外はまだ明るい。少し行くとディズニーがあるんだよなと思うと不思議な気分だった。ディズニー帰りであろう車をみながら、「おまかせ」でチンしたのであろう生ぬるいカレードリアを食べた。正直ハチャメチャ眠かったがへアメをしていたので寝られない。頑張って寝ようとうつぶせを試みたが、化粧が崩れると気づいてやめた。
ついでに酒も飲んだ。私はいつもマチソワ間に時間があると軽く飲むのが常だ。ローソンでチーズを生ハムで巻いた一口サイズの天才的おつまみを買ったのでそれをつまんでいたら秒でなくなった。

みほとせに関しては、カレードリアと酒を飲み食いしながら少し冷静になった。チケットとりやすかったみほとせの再演を望む声が多かったということは新規のファンが増えたということで喜ばしいことであるし、今後の新作を考えると、脚本的にターニングポイントのひとつであったみほとせを再度やることは何かしら意味があってのことだと思い直した。冷静にならないといけないよね。ほんとごめんな刀ミュくん。

私はマチソワ間を近くのホテルで待つ時間が好きだ。なんだかそのときは「これ食べたらソワレ間に合わないかな」とか「眠いけど寝ちゃ遅刻するよね」とか「でも足痛いから休めてラッキー」とか、常にソワレのことが頭にある状態が、自分がそのためだけに存在するものになったみたいで凄く心地よい。アトラクションの待ち列みたいに、ワクワクを抱えたまま時間を過ごせるのがいい。最高。愛してる。Kiss。


ソワレ。
立っていいんだよね……??みたいなかんじで皆中腰で困っていた。立ちたい。立ちたい私は中腰のまま、ええいままよと意を決して立った。ら、ちょうど私は比較的前の席にいたのだが最前あたりにいたガッツらしきおたくと目が合い、「コクン」と頷かれた。めっちゃ私の眼を見ていた。今でもそのときのその人の頷きの勢いを思い出すと面白くなってちょっと笑ってしまう。
私たちみたいな人がいっぱいいたのか結局ソワレは立ってスタートした。

 

内容については配信の通りなので省くが、「今日も加州でいてくれてありがとう」と思った。(あと令和を連呼していて可愛かった。)
私は原作で元々加州が好きだったので、ミュの加州に思うところがないかとよく聞かれるのだが、それはそれと分けられる人間なので特に思うことはない。ミュではこうなのだととらえているし、そういう加州も好きだし、その加州の集大成がアジアツアーだ。単騎に来て色々なことを思い直した。商業としてなにを考えているか分からないことが今もあるが、まあきっとなるようになる。そう思えるようになっただけで、幕張に来てよかったなと感じている。

願わくば来年も佐藤さんの加州が単騎をしてくれたらいいなぁと思う。し、そういう余裕のあるコンテンツであり続けてほしい。とりあえず♥フェにトロッコ出してほしい。

【ガチ恋の妄言】綺麗な景色の中でルルーシュに見つめられたい

綺麗な景色の中でルルーシュに見つめられたいなと思う。それはおそらく恋だからだ。
好きな人には美しい情景の中で見つめてきてほしい。それ以上は望まない。ぎゅっと抱きしめてほしいとか、頭を撫でてほしいとか、本当はものすごく思うけど、それが叶うわけがないのでせめて見つめてほしい。我ながらなんて可愛い願いかと思う。
例えば草原がいい。青く若い匂いが鼻孔をくすぐる中で、私のことを見つめてくれないだろうか。草木は生命の象徴だ。そんな原風景の中で好きな人に見つめられることは、魂のふれあいなんじゃないかなと時折思う。

なので水辺でもいい。うつくしい水辺。海でも川でも湖でもいい。できたら流れがあるほうがいいので、海か川がいい。水は言わずもがな生命の象徴だし、流れがあるほうが輪廻転生を感じられて、生きているという感じがする。あくまで私の感覚の問題なのだけど。

お花畑は向いてない。花の香りは強すぎてルルーシュの清らかで若い魂にはあまりそぐわない気がする。それにお花畑だと死後の世界みたいでちょっと悲しくなる。ルルーシュは死んだので。私がいつか死んだ後、ルルーシュにもしも会えたらこれ以上ないことだが、きっと出会えない。そういうことが悲しくなるのでお花畑は向いてない。
初恋だったので、清らかで美しい場所であってほしいなと思う。

見つめてくれる視線に恋の温度は必要ないなとも思う。ただ見つめてほしいだけで、そこに私に向けた想いなどは求めていない。ただふと見つめてくれたら幸せになれる。私が勝手に幸せになれるんだから片思いも悪くないんじゃないかと思う。不幸な考え方なんだろうか。
もし見つめてくれるときに指を一本だけでも握ってくれたらもう死んでもいいと思う。皮膚の微粒子が混じり合うのだ。こんなことあるだろうか。尊すぎる行為じゃないだろうか。いやまあ無いんだけど。

私が一方的に好きなだけで、私を好きになるルルーシュは解釈違いだし、そもそも妙に冷静になってしまいうまく想像できない。

私にほだされて、死にかけた私の最後の願いで空気に飲まれて抱きしめてしまうルルーシュなら想像できる。そのとき私はルルーシュの作戦の失敗によって、ルルーシュをかばって銃弾を受け虫の息とか、たぶんそんな感じだ。父親を殺されたとかよりは想像しやすい。私は自分で言うのもなんだが、ルルーシュのことが好きだし、無駄にプライドが高くて自己愛が強いので、たぶん賢い人からしたら操りやすいからルルーシュにとってはいい駒になれると思う。でもルルーシュは女に甘いので、作戦で死んでしまったらそれなりに引きずってくれると思う。そういうわけで私はカレンになりたい。カレンになって死んで、今際の際で抱きしめられたいなと思う。カレンごめん。

カレンになりたいと言ったが、ポジションにあこがれているだけで、私は私のままルルーシュに見つめられたい。あわよくば死に際に空気に飲まれて抱きしめられたい。死ぬなってギアスをかけてほしい。死ぬんだけど。死ぬんだけど、ギアスをかけられたい。

ルルーシュの特別になりたいとは思わない。そこまで勢いのある夢女にはなれない。だけど私の死を持ってルルーシュの染みになりたいと何度も願った。人生の内のほんのわずか、0.00001%でもいいから私だけの私の染みを作ってしまいたい。ゆえにルルーシュの作戦の失敗とかで死にたい。いやなんでもいいんだけど。いいんだけど、とにかくほんの僅か数mmでいいから心臓に巣くいたいのだ。ガチ恋ってたぶんみんなそうじゃないかな。しらんけど。

なのでふれあいは欲さない。ただ見つめられたいだけだ。でもそれは直接的なふれあいを求めるより欲深いことなのだと思う。
思えばルルーシュは性を介さない私の唯一の初恋だ。小学生のときに一目惚れをしたため、性も何もなかった。そこに意識が行く前の唯一の偶像なのだと思う。あのときルルーシュに何を求めていたか思い出せない。でも今、大人になった今、私は性を介さずにルルーシュの深くに触れたいし触れてほしいと思っている。その願いの行き着く先が「なんか綺麗な景色の中で見つめてほしい」だった。

そのことをぼーっと考えると、ガチ恋って推しに何してほしいかみんなばらばらだろうけど、「推しに綺麗な景色のなかで見つめてほしい」というのは普遍に同意してもらえる、ような気がする、のだが、どうだろう……私は他のガチ恋が何を考えているかよく分からないのでいつかガチ恋を集めて思う存分語らってみたい。まあ地獄の窯の蓋を開けたみたいなことになるだろうけど、恋する女子はヘドロ色なので仕方ない。

私の第一にして最大の目的として「見つめられたい」がある。そして同じくらい、穴が開くほど見つめたいとも思う。見ることは唯一許された自由ではないかと思う。ものすごくリアルな話をすると、マジックミラー越しとかに見つめたい。思う存分見つめたい。あ、つむじ右巻きなんだ、とか思いたい。彼が生物であることを感じたい。毛穴とか見つけたいし、ちょっと日焼けしてしまったうなじとか見て「生きてるんだぁ」と思いたい。まあ死んじゃったんですけど。

そうやって考えていると、確かに私はガチ恋だけど、ルルーシュは「恋の対象」ではなくて「恋の象徴」なのだと実感する。具体的に現実で何かが起こることはない。ルルーシュは私にとって永遠に象徴でありアイコンであり記号なのだ。そこにルルーシュの人格が介在する隙間があるのかと問われたら苦しくなる。あくまで私の中の偶像なので。
恋を象徴しているからこそ、「見つめてほしい」のだと思う。生々しい欲はそこにあってほしくはない。あくまで「初恋そのもの」なのだから。

ルルーシュは私にとって初恋そのものなのできっと永遠に終わらないのだと思う。残念ながら。
なんかめっちゃ綺麗な景色の中で見つめられたい。ガチ恋のみんなもそう思うときがあったら教えてほしい。一方的に共感するので。

刀ミュと私のメンヘラシャウト~2015年秋から2019年夏、新作を前に~

新作が始まります。その前にソウキだけど(変換されなくてめんどいからカタカナで押し通します)。

思えばゴミメンヘラとして刀ミュくんには迷惑をかけたりかけなかったりしたなぁという思いと、今年いっぱいで刀ミュを上がるかもしれないので、新作の前に禊として色々振り返って色々厄を落として、綺麗な体で刀ミュくんと向き合いたいという所存です。(上がらないかもしれないし、現状の報告であり構ってほしいわけではありません。メンヘラのため追記します)(上がるとしても数公演は行くと思うのであれです)

て、ていうか4年て~~~~コワ!年とるわそりゃ

 

2015年

原作オタク、トライアルにて刀ミュくんに出会う。思えばこの1回が「地獄の釜の蓋」というか、正直今後通うことになるとは夢にも思っていなかった。

そもそも発表されたときに「2部はライブ」という情報だけ流されてオタクみんな「?????」となっていたことは記憶に新しい。

率直な感想は「歌が下手」、でも「頑張ってるな」。元々私はアイドルコンテンツの消費体質であり、ともすれば全体主義にもなりかねないあのライブでの高揚がとても大好きで、「アイドル」の美しさが大好きだった。偶像が大好きだった。(私は年若い少年少女や青年が必死になってがむしゃらに夢を追う姿に、そうはなれない自分の夢を追体験しているのであり、その上で「普通に生きてりゃそこそこ楽勝だった」であろう綺麗な人たちが芸能という厳しい世界でずたぼろになって絞られまくる道を選んだこと自体にエモさを覚えまくるタチです。)

思えばずっとルルーシュという偶像に支えられてきた人生なので、偶像を愛するのはごく自然なことだけど、その結果「idol」を追い求める人生になった。と。いや痛いんだけど、痛いんだけど事実なんだよなぁ。

とりあえず私は2015年に刀ミュくんに出会って俳優の姿に惹かれた。二次元のキャラクターという偶像を俳優という偶像が表すコンテンツ自体にエモさも覚えていた。ちなみに私は原作ではそのとき加州推しだった(後に兄者に死ぬほどはまります)

 

2016年

あつかし本公演。

前回よりブラッシュアップされていて、まだまだではあるけれど「しばらくこのコンテンツを追ってみようかな」と思った1部。その直後の2部で佐藤さんが客席でファンの足下に跪いて手をさしのべているのを見て、「なんちゅーコンテンツに来てもうたんや」という気持ちになった。そのときまだ原作オタクの頭が抜けていなかったので困惑したというのもあるし、ここまで距離の近い男性アイドル(2部の話です)にはまったことがなかったので困惑したというのもある。私はそのときかつての推しボカロPと撮った棒立ちチェキを思い出すなどしていたのだが、2.5次元が『裏切りは僕の名前を知っている』でおぼろげにある記憶と我らがテニミュの断片的記憶しかない程度の知識だったため、「なんかヤバイコンテンツなんだな」と思ったことを覚えている。

 

プレライ。

このときお見送りがあったのだが、今やたまアリや幕張でライブをする刀ミュくんでは二度とできないことだと思うと感慨深い。

またこのメンツで初のテレビ出演が行われた。後々様々なテレビ番組に出演し紅白にも出ることとなった刀ミュだが、そのメディア出演の歴史はここに始まる。ミュージックジャパンは今はたしか放送されていなかったと思うが、なんかももクロに絡んだりユースケサンタマリアにいじられたりしたのは覚えてる。正直テレビなんてこれが最初で最後だと思っていたので「こげなことする日くるんだべか」的な気分で見ていたのだが、そのときの一般人の反応も忘れられない。「和風楽曲かと思ったら四つ打ちビートかよ」という反応だった。でも深夜枠ということもあり比較的受け入れられていたのではないかと思う。このときは知名度はゼロに等しかったが、しかしそんな始まって間もないコンテンツを背負ってテレビで恥ずかしがらずに頑張って役に徹してくれている俳優を見て「絶対このコンテンツを大事にするぞkiss」と思ったのも覚えている。

 

当時の刀ミュくんの扱われ方といえば「ステの下位互換」「2部で客寄せしてるだけのコンテンツ」だった。原作オタクの中でも色物扱いだった。ステとどちらが優れているのか、などと競うのは不毛でしかないためどちらを上げるにしても避けるべきだと思うが、ともかくこのときは「ステが舞台として優れていてミュはだめ」みたいな言説が普通にあった。悲しいことに俳優の努力はなかったことにされた。1部2部をやるのは並大抵の体力ではできないし、事実キャストが「明日にも足が動かなくなる」とまで言われていたのだが、それでもその努力はなかったことにされた。
このことがあったので私は刀ミュを追う気持ちが一層強くなった。きちんと見てあげないといけない、と思った。とか言ってるけど単純に悔しかったし、単純に見たかっただけなんだけど。

 

幕末天狼傳。

清光のメイクがバリ良かったとき。マジで何回見てもパブロフか?ってくらい号泣してしまい劇場で使い物にならなくなったオタク。でもみんなそうでしょ?
ちなみにこのとき大阪公演がサンケイホールブリーゼだったのだが、京劇(アンチをしています)ほどではないが「見づらいな~~」と思いあまり好きではない。

 

厳島神社で特別公演。

あんなに馬鹿にされてる刀ミュくんが、ととても嬉しかったのを覚えている。キャストの緊張した顔、声、どれをとっても凄絶で、彼らは私以上にこのコンテンツに重責を負うとともに可能性を感じているのだと思うとうらやましくなった。いちオタクはいちオタクに過ぎない。

 

らぶフェス2016。

絶頂だと思った。もうこれ以上のコンテンツの先はないだろうと思った。それくらい国技館と城ホを埋められるのは幻のようだったし、嬉しくて仕方なかった。今ではありえないが城ホは当日まで埋まらなかった。当日も埋まっていたと言えるのかは怪しいが、おおむね埋まっていたとは思う。
ちなみに物販はひどかったのでそういう意味でも忘れないと思う(大雨の真冬の中ぐちゃぐちゃの列で5時間以上)。だけど物販ひとつを見ても、「手探りなんだな」というのは感じ取れた。まだ制作陣も手探りで、何をどうしたらいいのか試験的にクリアしていくしかないのだ。仕方ない仕方ない。と後々思ったが、当日は「オタクがこんな集ってるから神様が怒ってるんだ」「俳優たちあったけぇ部屋からこれ見て笑ってるにきまってんだろ」と被害妄想丸出しで寒さに耐えながらキレていた。寒さと空腹は人をおかしくする。

あと最近「♥️フェ2016で(わたしを)見かけた」という3年越しの目情がお題箱に届いてひっくり返った。

とにかく刀ミュくんが好きでだんだんリアコみたいになってくるのがこの頃。

 

2017年

みほとせ。

なんかオタクが一段落ついたのか大量離脱した&客席のマナーが死んで病んだ。大量離脱はなんとなく気持ちは分かっていて、確かに前2作でなんかやりきった感あったし❤フェで集大成感があって、燃え尽きたオタクもいたのだと思う。かくいう私もみほとせが始まるまで「春新作は崎山つばさの消化試合」と呼んでいた。(本当にすみません。みほとせめちゃ良かったしめちゃ好きです)

ちなみにマジでマナーすごかった。私の覚えている限りでは、近くのオタクが舞台に背中を向けて丸まって寝始めたり、遅刻が多い上に靴音がすごくてどんどん聞えたり、話し声やぬいは当たり前、なんかもう凄かった。でもこの程度で凄いとか言ってちゃ2.5のマジの闇に触れてきた人からすれば甘いですよね。すんません。でもトライアルやあつかしからのおたくの大量離脱もあったのでめっちゃ病んだ。みほとせ二度と通わない、とおもた。みほとせ自体は好きなんだけどなぁ~~(^-^)と精神が死んだ。あと幕末の上海公演で兼さんと堀川の二刀開眼をみれなかったオタクによる謎のクレーム(あったんですよマジで)のせいか、大楽は石切丸の禊だ!ってワクワクしてたのに青江との若干腐媚びっぽい内容で、病んだ、よ、

(この大楽に限らず禊がどんどんキャラから離れていったのは事実で、客降りでのファンサを含め過激になっていったものが目立ち、みほとせを契機に色々変わることになる)(たしかそう)

現地に行かなかったやつが現地で行われたものを観たかったずるいとかやいのやいの言う権利はマジでねぇと思っているので、病んだ、
この頃から「刀ミュ好きだけど降りてぇ」という気持ちが生まれてくる。とうとう生来のメンヘラが刀ミュに向けられた瞬間。ごめんな。謎の同拒をこじらせた結果「刀ミュのアンチ全員ブロックするけど刀ミュ好きな人もブロックするから誰も残らない」という事態になるなどする。心当たりがないのに私にブロックされてる人、たぶんこれです。すみません。
そして私は刀ミュで出町をした記憶がないのですがなぜか出町をしていたことにされる(なんかお題箱で言われる)。おそらく原因は、梅芸の隣にあるMBSで出町をしているらしいジャニオタの友達をそのあと約束あるからその近くで待っていた(町の町?)ことに由来するのかもしれませんがよくわかりません。当たり前に追ッタクもしてないです。

あとここでの客降りでのあることを改善してほしいとアンケートに書いたら改善されたため、ちゃんと読んでることが分かり嬉しくなった。アンケートを読むということは改善改良の意思があるということで、コンテンツを捨てておく気持ちはないということだと思った。ここで、脚本のあり方を見たのもあるし、なんだかまだ先があるのだと確信した

あと多分このころからオリコンに入れてあげたくてCDを50枚くらいは買うようになった。まだまだ少ない数だけど少しでもオリコンに貢献したかった。刀ミュのリアコだから(?)

 

その後インド公演。なんだか遠いところまで行ってしまったが、刀ミュが日本の2.5という海外に向けた市場で大事な存在なのかもしれないと思い始めた。が、このときは海外のことはあまり考えていなかった。インドか~~~へ~~~すげーな~~というだけだった。

 

単騎2017。

銀劇を加州1人で埋めるなんて無理だよ~~~と思っていたのだが超チケ薄、今は亡きチケキャンで立ち見50kを超えていたらしくひっくり返った。かの有名なアモーレが生まれた公演。ここらへんで刀ミュって私が思ってるより人気……?ときづきはじめる。明らかに2015年2016年とは一線を画す人気度になってきているので驚いた。このときのキャン待ちの列が円になって加州清光召喚の儀みたいになっていてオモロだった。

 

つはもの。

たしかこのときから脱アイアをして全体的にキャパが広がった。青年館、TDC、梅芸ドラマシティ、京劇(アンチをしています)。なんか全体的に会場にメジャー感が出始めたのがこの頃だ。しかしそのせいでまだ埋まり具合がつかめていなかったのか、双騎を除けば一番のチケ薄公演になった。それもあってちょっと病んでいた。積んでも思うようにチケットが手に入らん舞台、普通に病む。名義積んだ分だけリターンを返してほしい。

この頃にはすでに「ミュはステの下位互換」的な言説はなりを潜め始めたが、しかしそうなると次にあったのが一般人からの視線だった。メジャーになりつつあるということはイコール一般人からの視線にさらされるというわけで、これが個人的にきつかった。悪意無く「キモ」と言われるの、結構傷つく。私がどうこう言われているのが嫌なのではなく、大好きなコンテンツと役者が心ない言葉にさらされるのが恐ろしかった。

つはものでは心が折れた。刀ミュくんのことまぢ好きだけど一緒にいるの苦しいよ。。。。。みたいな気持ちになった。

というのも一切身なりに気を遣わないオタクに囲まれたのが響いた。ルッキズムはよくないと思う。容姿に縛られず生きていきたい。私も自分の容姿を優れているとは思わないから人にどうこう言える立場ではないし、同時に、優れていないとしても私は私の大事な容姿を他人にどうこう言われたくない。刀ミュの年齢層がどうとか、年いってるからきもいとか、そういうのは迎合できない。できないけど、社会人として、社会の構成員として、人に不快感を与えない最低限の身なりというのもまたあるとは思う。それすらできていないのに俳優のファンサをもらうためにうちわを作るのか、自分よりずっと年下であろう男の子からファンサをもらいたいのにそんなに容姿というか全てに無頓着なのか(このとき三浦くんがいたので余計に響いてます)、服を洗って風呂に入ってくれ、というオタクがわんさかではないがちょいちょいいた。俳優ファンっぽい所謂リアコファッションの女の子が「むり」と言ってどこかへ抜け出していた。泣いた。比喩ではなくなんかきつくて泣いた。劇場で泣き出したオタク、きつすぎる。私の可愛いコンテンツのファン層は「これ」なのかと思った。風呂に入って大声では話さず腐の話もしない、それができないのか、と思うと、きつかった。私も含めてきつい。あとこの話をツイッターでしたら「ブスは来ないでほしいですよね(^_^;)」みたいなお題箱が結構来て「全然ちげ~~~よ!」とキレた。そういうのも含めてきつくて泣いた。

そのあとしばらく頑張ったけど無理だったのでラストの大阪公演は全て干した。梅田まで行って干すの癖になるね。私は何をしてるのか……という虚無が凄い。刀ミュのこと大好きなのに降りたい気持ちでぐちゃぐちゃになるなどした。今思えば何をそんなに悩んでいるのかわからないが当人は真面目だった。冷静になれないというのもこわい。

あと禊もなくなった。コーレスになった。オタクの悲喜こもごもが生まれ俳優に負担がかかるくらいならなくなっていいと思っていたのだが、なくなるとそれはそれで寂しかったりもした。オタクは我儘。ごめんね。

 

らぶフェス2017。

この公演で武道館とたまアリが発表されたとき劇場で腰砕けになって泣いて人に支えてもらった。あんなにバカにされていた彼らがこんなとこに到達するなんて、と思った。心底嬉しくて仕方なかった。でも大好きだけどしんどかったので降りようかなと思っていた。

降りるぞ~~~私は降りるぞ~~~~降りるからな~~~~~と心に決めて行ったら案の定爆裂最高で「やっぱ好き~~~~;;;」となった。降りなかった。「見かけたから声かけようかと思ったけど号泣してて無理だった」というお題箱が来たくらい号泣していたらしい。「刀ミュくんのこと……ちょうすきだけど……あいしてるからこそ離れないといけないこともあるとおもうの……でもいまは離れられないの……」と連番した友達相手に泣いた。その日4回泣いたのを覚えている。物販列でなぜか1回、公演中に「やっぱ好き」で1回、帰りながらぐちゃぐちゃになり1回、電車の中でもう涙腺が壊れて1回。今冷静に見るとドン引きなのだが当時は真面目だった。こわいね。

「獣」という曲があるが、その初披露である本公演で、演出が最高だった。というか全体的に「演出や映像にお金をかける余裕が出て来た」と感じる公演で、その懐が潤ってきたのだなという感じが、私たちの金が報われた感じがして純粋にうれしくなってしまった。まだこの先を見てみたいと思ったので降りなかったのだと思う。

 

2018年

パリ公演が発表される。まだ情緒不安定ではあったが、それよりもワクワクのほうがどんどん大きくなっていった。「手の届かないくらい遠くへ行ってほしい」と思うようになった。そうツイートしたら、言った覚えのないことを言ったことにされてお題箱で叩かれ、GANTZを見に行く夜行バスの中で顔真っ赤にしてキレた。

 

むすはじ。

まあでもそんなに行かないかな~と思っていたけどまあまあ行った。おそらく30くらい行ったと思う。(最初は写真のっけてたんだけどマウントみたいになったら嫌だから消しました)(というのをだいぶ前にしたはずなのに保存できていなくて無意味だった)

1部の内容は最高だった。つはものあたりから顕著だったが、2部の曲にもバリエーションが出てきて、コンテンツとしてさらに面白くなってきた。刀ミュまじ一生ついていく卍卍とおもた。

 

あつかしパリ

推しはいないのでパリにはいかず東京のみの茶の間をしたが、ここで禊が復活した。やりすぎず客を楽しませる、という点で禊は難しいが、初期からの彼らならソツなくこなせるとおもった。パリでは色々とあったが、全体的にブラッシュアップされていて非常に良かった。刀ミュのシンプルな「舞台としての完成度」も上がってきているように感じた。

 

単騎2018

DIVEと行脚したので疲れたという感情しか記憶にないのだが、佐藤さんがLDHのような恰好をしていたのを覚えている。あとカバー曲もあり、刀ミュ間での曲の貸借が生まれるのはなんだかジャニーズのシャッフルのように新たな魅力が生まれるのでめちゃくちゃイイなと思った。

 

らぶフェス2018

今までで一番盛り上がった爆裂最高の♥フェだと思うのですが!?

大阪と武道館はいつも通りだけど、仙台は死ぬかと思うくらい寒かったし、福井は歩くのが遠かったし、幕張はシンプルに音が悪かったけど、それでも死ぬほど楽しかった。観光もできたし、うまいもん食って地酒飲んで。病んでない♥フェこんなたのしかったんけ!?はよ気付きたかったわ!という気持ち。

 

紅白

とんでもないよ。とんでもない。かつてあつかしのときに「目指せ紅白」なんて笑っていたのにそれが叶うとかエモさとロマンしかない。

正直なところ彼らが俳優としてキャラの恰好で紅白に出ることに意味があるのか、正直少しモヤモヤしていたのだが、蓋を開けてみたらみんな楽しそうにしていてよかった。なんかもう難しいこととか考えずに、男の子たちが楽しそうにわちゃわちゃしてるの、ちょうイイ~~~~~~という感情だけの存在になった。

それまでなぜかわたしのお題箱に「刀ミュが紅白に出ること反対」的な一般人(少なくともミュのファンではない)からの投稿が来たりと、「いや私に言われましても……」な内容が寄せられて辟易していたのだが、そんなこともどうでもよくなった。 

本当に大人たちは彼らを紅白に出すつもりだったのだという驚き半分、夢が叶う瞬間のエモさ半分。まだまだ認知度は低いかもしれないが、それでもやっぱり当初から考えると特別枠とはいえ紅白に出れるくらいの知名度になったんだと思うと感慨深い。馬鹿にされてたなぁ、とか思う。今度は一般人からの視線が気にかかってくるが、それは一種の有名税で、かつてなら考えられなかったことでもある。これからもどんどん快進撃を続けて行ってほしいし、新たな夢に私たちを連れて行ってほしいと思う。大好きだ大好きだ大好きだよ~

2019年

みほとせ再演

紅白で燃え尽き症候群みたいになりみほとせ再演は通わなくなる。10公演行けば上出来だな~とゆるく茶の間していたのだが、実際には10も行かなかった。内容は再放送という感じで特筆することはないのだが、チケットとりやすかったみほとせの再演を熱望する人が多くいたということはファン層が拡大し新規が増えているということで喜ばしいとも思う。

ただ個人的に、「紅白を終えて刀ミュの第二章へ」と謳う中で新作をやらずに再放送同然の再演と単騎などのライブのみで、新作が秋まで待つというのがなんだかもやもやした。A3に乗り換えるつもりなの!?と暴れた(暴れてません)。でも刀ミュくんの考えていることだから何か、何か理由があるはず……とおもい今に至る。

あとカノバレ(だけじゃないけど)でコンテンツのブランドに傷をつけようもんなら人気でも秒で降ろされるという点にコンテンツを守りたい大人の「マジ」は感じた。

 

単騎2019

燃え尽きていた中いった割りには意外と楽しくて「やっぱ刀ミュくん私のこと愛してんじゃん!(ちょろおた)」と思った。また来年も単騎やって~~~ちょ♡

当日は幕張なんだかんだで埋まっていたし、値崩れはあったけどソロで幕張でライブできるなんてかつてでは考えられないなーとちょっと感慨深くもなった。これからも成長し続けるコンテンツであってね。

 

長かった。書くの疲れた。

次の新作も楽しみでしゃ~~~ない。これからも多くの夢を見させてほしいし、紅白を終えた今、次の目的ってなんだろう?と思うとワクワクする。もやもやは色々あるけれども、ずっと応援したいし、応援させてくれるコンテンツであってほしいと切に願う。やっぱり大好きなんだと思う。

みんなへ 双騎も新作も楽しも~~~~~ね!!ぼくより

【ガチ恋の妄言】私にとってのルルーシュという業

わたしが彼を初めて知ったのは小学生だったので「大人のお兄さん」だったのを思い出すと死にたく、なる。

気づいたらルルーシュの年を越えた。彼は死んだのでわたしより年上になることはもうない。大人のお兄さんだったルルーシュが、弟のような年になった。かなしい。なにが悲しいのかわからない。わたしが年を重ねたことが悲しいのではなく、彼が年をとらないことが悲しいのだと思う。

中学生のとき彼は少しだけお兄さんだった。

高校生になり彼と同じくらいになった。わたしからしたらルルーシュはすごく頭がいい大人だったのに、現実の高校生ってこんなもんかぁと思った。世界とか背負えないよなと思う。ルルーシュは凄いのだ。だから死んだんだ。彼が全然凄くなくて馬鹿でしょーもない人間だったらきっと死ななかったのに、と思うが、それはルルーシュじゃないので無理だ。死んだルルーシュが好きだ。辛い。 

18歳になり、大学生になり、20歳で大人になり、今に至る。ルルーシュは大人になれなかったのにわたしはおめおめと生き延びて大人になってしまった、と20歳になったときに思ったことを覚えている。(わたしはメンのヘラです)

ルルーシュの残した世界でルルーシュのぶんまでちゃんと生きなきゃ、と思うが、自分が大人になればなるほど「彼は2次元でアニメだから意味ないよ」というすげ~~~冷静な意識がどんどん大きくなっていく。私は初恋をしまうことができたと思ったけど(初恋の男が生き返ってしまった (「コードギアス復活のルルーシュ」におけるガチ恋の感想) - 現金満タン、ハイオクで。)、初恋をしまった結果なんか中途半端に拗らせたまま続いている気がする。だって私にとってルルーシュはお母さんでお父さんで救世主なので。

ルルーシュはわたしの神様(仮)なのか - 現金満タン、ハイオクで。

 

グラブルコラボのルルーシュがかっこいい。息が止まるほどかっこいい。私はソシャゲPTSDを患っているのでプレイできないのだが、身内にプレイしている人が何人かいるので彼女らが色々見せてくれる。かっこいい。何がかっこいいか考えようとしたけどわからん。私にとって「ルルーシュ=かっこいい」「ルルーシュ=綺麗」なので、具体的にどこが好きか分からない。大好きなお母さんの好きなところが分からない感覚に非常に似ている。ゲロ吐きそう。

ルルーシュが私の「好きな人」のプロトタイプなのでみんなああいう人を好きになる。黒髪でクールそうで中性的に美しくて頭が良ければ最高だ。語尾が言い切りの形が多ければ最高だ。ちょっと抜けたところがあったり実は情に弱かったりするといい。そしてなにより死にそうになる男が好きだ。

そう、ルルーシュが死んでから私は「死ぬ男」が好きになり、原作で死なないなら二次創作で死ねばいいと何回も殺してきた(語弊がある)。

私は「地球滅亡」「死体埋め」「実家放火」を自分のお家芸だと言い張っているが、要するにそういうことだ。暗い二次創作ばかりするのもルルーシュが死んでそういう風に自分の人格が形成されてしまったからだと思う。

もうこれを業と呼ばずに何というか。

あとボーイズのラブの人格もスザルルで構成された。こわい。

精神が死んでどん底のときにルルーシュの声が聞えたくらい限界に彼のことが好きだという話は何度もしたが、私はそれくらい彼を抱えてる。でも日に日にルルーシュがいなくても大丈夫な自分がいる。彼はアニメキャラだから、と割り切れる自分がいる。こんなに好きでこんなに人格に影響を与えたのに、それでもいつか手放せる日がくるかもしれないくらい自分が大人になってしまったのが悲しい。ルルーシュは年をとらないのに。一生交わらないのに。

私はそれくらい大人になってしまったのに、ルルーシュは永遠に大人にならない。そのことがこんなに悲しいとは思わなかった。

ルルーシュがいなくても、何に頼らなくても、生きていけるようにならないと。とは思うが、そんな日が来るとき私は私の人格をこんなに形成したルルーシュを手放すのだとすれば、私の人格ってどうなるんだろう?と思う。いやどうにもならんかもしれんけど。どうにもならないとしても、ちょっとこわいのは事実だ。

もう私にとってルルーシュは運命というより業だと思うが、それくらいメチャクチャにルルーシュのことが好きだ。でも昔は「ルルーシュのためなら死んでもいい」と本気で思っていたが、今は本気10000%でそうは言えない。私が大人になったから。そのことが悲しい。ただルルーシュに見つめられたい。そしたら全部解決するのに。とか思うけど、ありえないって自覚してる。悲しい。

 

 

 

 

 


 



 

映画『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』感想/ゴジラに思い入れのない人間が観たらコンテンツの可能性を感じた

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(画像:https://eiga.com/movie/88330/

日本が生んだ怪獣王ゴジラをハリウッドが映画化した「GODZILLA ゴジラ」(2014)のシリーズ第2作。前作から5年後の世界を舞台に、モスララドンキングギドラなど続々と復活する神話時代の怪獣たちとゴジラが、世界の覇権をかけて戦いを繰り広げる。また、それによって引き起こされる世界の破滅を阻止しようと、未確認生物特務機関「モナーク」に属する人々が奮闘する姿を描く。(上記同サイトよりあらすじを引用抜粋)

godzilla-movie.jp

 

私子どもの頃仮面ライダーになりたかったし今もモンスターが大好き。なんだけどゴジラに思い入れがない。ゴジラキングコングが戦ってるのをむかーし観た、気が、する、、程度。はっきりと観た!と覚えているのはシン・ゴジラくらい。しかもそれも庵野だから観たという理由で、その程度のうす~~~い知識の女がゴジラを観たという話をします。

結論から言うと、ゴジラ好きたちのアツい感想をみて「爆裂最高」を期待してしまい、普通に最高だったのに「まあまあかな……」みたいなきもちになってしまったので、向き不向きがある映画だし「爆裂最高」を期待するともしかするとあなたには合わないかもしれないから、私と同じ轍を踏まないでほしい、ゴジラは悪くないんだ、という話です。あとこきおろしたりしないし普通に良かったんですよ、マジで。あとゴジラというコンテンツの可能性について触れています。

 

とにかく人間ドラマがない。

ちょっと人間パートが長くなるとちゃんと怪獣たちが大暴れして西日本くらいの規模なら2~3分で蹴散らして壊滅してくれるので最高。ストレスフリー。前情報として「人間パートが秒で終わる」と聞いていたけど開始早々秒で終わったので思わず映画館で「生き急ぎすぎだろ!!!」と叫びそうになった。エマ(お母さん)は最初の登場シーンで、知識がなくとも映画好きの血がピーンときたのか「この人やべぇもの開発してそうだな」と思ったんですけど、それが想像の100000倍ヤバい代物でひっくり返りました。全体的に人間がヤバい

何がヤバいって芹沢博士さんが比較的まともに見えるくらい大真面目にクレイジーな論を展開するヤツしかいない。ぼーっとしてると「ふんふんなるほどね」って思いそうになるけど、よく考えたら怪獣を起こして世界の均衡を保とうとするのとか、それに最初は反対しつつも「ゴジラはセーフ」という謎理論で魚雷で闘魂注入するのとか、その魚雷を芹沢さんが生身で設置するとか言い出すのとか、それを押し問答するシーンがほぼなくみんな「仕方ない……」みたいになるのとか(全然仕方なくない気がする)、エマが子供の見てる前で容赦なく数万数十万の一般人を犠牲にして怪獣をめざめさせるのとか、神話をハイテク科学より重要視してるのとか、思ったより神話関係なさげだったのとか、なんかもう皆やべぇんですよね。私はそれが愉快で仕方なかったのでゲラゲラ見てました。実質コメディだなって。この知能低めな感じが映画とうまくあっていて最高のバカ映画になってたと思います(めちゃくちゃ褒めてます)(『アクアマン』も『モータルエンジン』も大好きです)

とにかく人間の命も街も紙屑以下に吹き飛びまくるのが最高。マジで紙屑以下。超死ぬ。超死ぬし超壊れる。最近『空母いぶき』を見て人命に敏感になっていたので、これ損害が復興どころじゃねーべや……というリアルな気持ちがちょっと出てきてしまったのですが、そのリアルな感情のギアをぶっこわすくらい超死ぬし超壊れる。あとたまに食われる。人間なんてギドラからしたら柿ピーにもならない気がするのですが、(食料目的かはわからんけど)パクッといかれちゃってたのが「怪獣って人食うんだ……なおのことコワ……」と異文化を垣間見た気持ちになりました(怪獣知識ゼロなので)。特に戦闘機から脱出しようとしたらパクッといかれたのがトラウマ並みに恐怖だったんですけどあれなんであんなさらっと流されてんの?こわくね?アナコンダが吐き出した人間が消化されかけつつもまだ生きてたというシーンくらいトラウマになりそうなんすけど……怪獣界隈ではポピュラーな食い方なんですかね?人間踊り食い的な……コワ……

 

一方でモスラさんが目覚めたときの讃美歌流れそうな神々しいシーン、あれは虫がゲロ吐くほど苦手な私でも「う、うつくしいんちゃうか……」と思ったし、あれはたしかに昔彼らが神としてあがめられたのもわかるなぁというシーンで象徴的でした。モスラちゃんとゴジラがラブラブなの初知りで「異種交配!?」って驚いたのですが、ゴジラを守るために懸命に戦うモスラちゃんの姿が健気で可愛くて、生きててほしかったな~~~~っておもた、、、ほんまに、、、

 

とにかくこの映画は人間ドラマはすがすがしいほどの「おまけ」として割り切っていて、怪獣のバトルがメイン。もう怪獣!怪獣!怪獣!ソイヤ!ソイヤ!ファ~~(讃美歌)~~~って感じで、いくらゴジラに思い入れがない私とはいえゴジラのテーマがかかって彼が目覚めたときは「うお~~~~!」ってなったし、ゴジラのテーマのアレンジがエグイくらいカッケェだったし、ちょっと念仏?般若心経??が混ざった音楽のときは邪悪さ禍々しさがたちこめていて圧倒された。最高。最高だったんだ。

子供に対する監視ゆるすぎだろ、とか、色々突っ込もうと思えば突っ込めるのですが、この作品はいい意味で「勢い!!パワー!!!!カッコイイ!!!!ドン!」って感じなのでそこを突っ込むのは野暮のような気がする。ロジカルなミステリーじゃあるまいし、というか。ここで不完全なバカっぽさが映画自体を勢いとパワーあるものにしている、と、思う。たぶん。

 

何が私は楽しめなかったかというと、わたし自身が非常に細かい点がきになってしまうというところと、そもそも怪獣バトルに心惹かれなかったというのがあります。怪獣バトルに全振りの映画なのでそこが好きじゃなかったらそもそもたのしめないよな~当たり前体操~。アクション映画とかモンスター映画は好きなのでそういう意味では楽しめたのですが、私は様々なクリーチャーによる都市破壊の様を見たいのであって、モンスター同士のプロレスに魅力は感じなかったのだなと。私の期待していたゴジラは前者であって、この作品は後者。単純にそこが合致しなかった。それは当たり前にこの作品は全く悪くないし、私も普通に楽しめたので十分よかったと思う!爆裂最高にならなかったのだけ、自分の趣味が違うせいで~~と悔しい。

結局そこにあるのはゴジラの多様性ではないかなと思った。

シン・ゴジラは異色のゴジラ映画であると思うけど、私はものすごく楽しめた。それはゴジラに現実で直面したとき、政府や民間がどう動くのかという政治映画にも近いテイストが非常に趣味にあったから。このシンゴジも楽しめるかは人それぞれだし、「楽しめる人」と「楽しめない人」がいるといういわば偏ったフェチの映画を作ってもコンテンツが成り立つくらい、ゴジラというコンテンツには絶対にぶれない主軸があって、その上で様々な多様性が存在しているんだなと。これってファンからしたらとんでもなく贅沢なことなのでは?私は残念ながらゴジラのファンではないのでよくわからないのだけど、ものすごくゴジラファンがうらやましいなと思った。ぶれないくらいの主軸が、つまりそれ単体で十分なコンテンツ力を持つ推しってちょ~~最高ジャン。

今回のKOMも、あらゆるファンの理想を適度にカバーしつつ無難に……というひよった映画をつくろうとしていたら、たぶんわたしは楽しめたけど、楽しめても楽しみ切れない人が物凄く生まれたと思う。

何かを捨てて何かに専念する、そういう映画をつくる決断をするのはすごく難しいし、作り手にそれを委ねることができるゴジラさんのコンテンツ力はものすごい。国民的ヒーローになってもよいんじゃないだろうか。

私は残念ながらゴジラを楽しみまくれはしないタイプの人間だったけど、そういう人間が出てくることはむしろ、消費者のあらゆるニーズの受容の可能性を浮き彫りにするし、ゴジラにはそういう可能性があるんじゃないかな~と思うと、それを好きなファンが羨ましくなりました。という感想です。