現金満タン、ハイオクで。

サブカルチャーがだいすき。ツイッターの延長なので詳しくはツイッターを見てくれ。

「書く」ことについての所感(及びナマモノ論争における所感)

ブログ名や小説タイトルの由来をたま~~に聞かれます。困る。

というのも説明するのが恥ずかしいからです。

一応このブログの紹介頁に由来は少し触れているのですが、

highb.hatenablog.com

ブログ名については、穂村弘が好きだったので、なんとなく穂村弘の短歌に出てきそうな感じの単語を考えてつけました。なのであえてレギュラーではなくハイオクにしたほうがそれっぽいかなと思ったのですが分かりません。「ハイオク満タン、現金で」をひっくり返してちょっと日常のなかにパラレルワールドはあるんだよ的な意味合いも込めたかったのですが本当に1mmも深い意味がありません。

 ね、恥ずかしいでしょう、この由来。

正直つけたときは深夜だったんだと思います。じゃないとこんな恥ずかしいタイトルつけないですよね。みんなの羞恥を煽ってしまいすみません。

穂村弘が好きなのはまあ無難だしいいんですけど、ですけど、そんなら彼の作品を引用するなりなんなりすればいいのによりによって「ぽいのを考える」とか、ハッッッズ……いや、はず、はずかしくないですか。わたしは恥ずかしいです。でも今更変えられないしそこそこ気に入っている私もいます。穂村弘の日常のあたたかみのあるあっけらかんとした感じと毒が共存する雰囲気が好きで凄く影響を受けているのですが、その「毒」をね……いれたかったんですよね……はずかし~~~~~!

その「毒」部分が、日常の歪として現れるパラレルワールドのスイッチで、そういうものが世の中には案外あるんだぞ……てきな……。啓蒙するようなきもちがなかったのが唯一の救いなのですが、そういう自分のなかのポエミーさが顔を覗かせまくっているこのブログタイトルを半永久的に使うことになっています。でも気に入ってる自分もいるんですよね。はずかしい。

 

以下は私が書いた小説のタイトルの一部です。(自意識過剰なので小説という言葉を使うのは恥ずかしいです)(小説と呼ぶとハードルが上がる感じがして)

 

『無敵』(【腐向け】「【つるいちつる】無敵」/「BUN太」の小説 [pixiv])/幼少期に埋めた死体が真夏に見つかる話。言い切りの単語でなおかつ重要な台詞の一部であればかっこいいかなと思った。このタイトルにしたくて書いた。少年少女独特のあの「無敵」感が好きだった。

『アンダー・ザ・リング』(【あんさん腐るスターズ!】「【まこいずまこ】アンダー・ザ・リング」/「BUN太」の小説 [pixiv])/死体を埋める話。ノリで決めたタイトルなので思い入れがあまりない。

『2205年のノストラダムス』(刀剣乱腐】「【つるいち】2205年のノストラダムス」/「BUN太」の小説 [pixiv])/地球に隕石が落ちてくる話。全然ポエミーじゃないのであまり気に入っていない。まんまやんけと未だに思う。ポエミーじゃないのもそれはそれで恥ずかしいので、もうなんでも恥ずかしいのだと思う。

『三尸虫の告解』(【刀剣乱腐】「【燭へし】三尸虫の告解」/「BUN太」の小説 [pixiv])/罪を告白する話。わりとそのままのタイトルなのでnotポエムだと思っている。

『次にあなたが目を開けたとき、(【あんさん腐るスターズ!】「【宗みか宗】「次にあなたが目を開けたとき、」/「BUN太」の小説 [pixiv])/ラノベっぽいタイトルにしようとしたのでnotポエム

『ため息ひとつで天使が一匹死ぬ』(【あんさん腐るスターズ!】「ため息ひとつで天使が一匹死ぬ」/「BUN太」の小説 [pixiv])/フランスかどっかのことわざをひいてきているのでギリポエムではない

公表はしていない、もしくは公表を取り下げたものとして『8月32日の虫』『結び、弾き、ほどき、結び、』『悪癖。』『私はあの夏の下に埋まっている』『地球はXとYで膨張する』とかがありました。今タイトルだけ見返したらはずかし!となるのですが、大真面目に考えたので笑わないでください。

以上、ブログタイトルと小説タイトルについての話でした。

以下少し話が変わります。

 

基本的に私はポエミーな人間です。

highb.hatenablog.com

 だがたとえ死ねない体になろうと、化け物になりはてようと、殺してきた罪の対価や殺すことへの覚悟にはなりえない。
死はそこで完全なる遮断である。永遠の無である。生きることは死ぬことの対価には決してならない。

ですね。書いてるときは基本的にノリノリです。もう「超ええ文章やんけ!」って思ってます。基本的に自己愛が強い人間だし、これを言うと誤解を招くかもしれませんが、自己愛が強くないと、正確には自己への肯定の構築を求めていないと、文章を書こうとは思わない気がします。ブログにしろ小説にしろ。まじめな話をすると。

私は門外漢で詳しくないのですが、心理療法で「小説を書く」というのがあると聞きます。確かに効くだろうと思います。

作家の川上弘美さんが自身の書く小説を「うそばなし」と呼んでいるのを見て、妙にしっくり来たのを覚えています。

「うそ」の国は「ほんと」の国のすぐそばにあって、ところどころには「ほんと」の国と重なっているぶぶんもあります。「うそ」の国は、入り口が狭くて、でも奥行きはあんがい広いのです。(中略)小さい頃から「うそ」の国でしばしば遊んできたので、あんまり他の遊び場所を知りません。もしも「うそなんて、だめよ」と禁止されたら、からだをこわしてしまうかもしれません。(川上弘美『蛇を踏む』文春文庫1999・8・10より「あとがき」から)

文字にした時点で完全なノンフィクションは不可能で、自分の思いであろうと言葉にした時点で少し形が変わってしまうものだと思います。そういった意味で、フィクションであろうとノンフィクションであろうと「うそ」であることは事実で、その「うそ」を書くことで自己の肯定の構築をはかる人が大なり小なりいるのかもしれないなぁ、と最近思います。

散々ポエムだどうだと言ってきましたが、私はポエミーなところが好きです。自分で書いたものを恥ずかしがるのは、日本人の美意識とかいうものにはそぐわないかもしれませんが精神衛生上あまりよくない行為のように思います。二次創作なんて高尚なことは何も考えずにやっているものですが、それでも、どんな媒体でも、どんな内容でも、自分の書いた文字は何かしら自分の想いの切れ端であるし、それを「恥ずかしがる」ことによって否定しちゃうのはきっとよくないんだろうなと。

おもってるけどはずかし~~~~~んだなこれが!

 

けど、どんな媒体であれ書くことには責任が生じると思っています。語ることの危うさと言い換えてもいいと思います。

 

1951年にアドルノのいっていたことをおもいだすときがあります。

アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である 

これはナチスの話が絡んでいるし、啓蒙の中になぜナチズムが萌芽したか?あの惨禍のあと我々が純粋に芸術を楽しむことはできるのか?許されるのか?的なむずかし~~いお話が絡んでいるので置いておきますが、ともかくこれを初めて読んだ時「ガーン」という感じがしました。ちょうど『美しい顔』の問題も相まって、東日本大震災を直接体験していない人間がそれを語ることは許されるのか?という、文字における「当事者性」が再び問われていたときに、私はアドルノの言葉を読んだからです。

この震災における「当事者性」を超越するために頑張ったのが、いとうせいこう『想像ラジオ』であると思いますが、ともかくちょうど私が「書くことは野蛮なのか?」と考えていたときでした。

この「書くこと(語ること)」の危うさや野蛮さの危険視って、趣味でやってるだけの二次創作だから関係ない~とかそういう次元の話じゃない気がします。私含め多くの人は難しいことも高尚なことも考えずに、ただ「萌え」の発散で創作をしているのは重々承知なのですが。世間に向けて「文字」の形でなにかしらを発信した時点でそこには責任が生じるし(それは権利という次元でも、「書くこと」そのものへの責任といういみでも)、責任を負う覚悟がやはり必要なのだと思います。それは小説に限らず、いちツイートでも。

少し話がずれますが、私はツイートは文学たりえると思っています。ツイートを利用したSSは既に創作も二次創作も多く行われていますし、そうでなくても、ツイートは一種の手紙のようなものであり手紙が文学たりえるならツイートも文学たりえると感じています。手紙は文学であるとベンヤミン『ドイツの人々』の存在を知ったときに思いました。(これに限らず、有名な作家や偉人の手紙は文学として本になり出版されている事例もあります)

ともかくツイートというものも「書く」ことの責任というものが存在するのだと思っています。

私も過去に書いたものを見ていたら、「ああ今思えばこれって差別だな、偏見だな」とか思うことが大なり小なりあります。二次創作だから許されるってことでもないんですよね。この差別や偏見には分かりやすい形での「責任」があるなと思います。形而下化された責任です。

とにかく媒体やその背景に関わらず「書くこと」にはどうしてもセンシティブなものがつきまとう、ということが言いたかったです。

 

最近「ナマモノ(実在する人物同士のCP)は隠れるべきだ」論争が激しく、まあ基本的には概ね同意なので特に言及することはないのですが、こういった論争を見ていてぼーっと思ったことがあります。

ネットは「書くこと」へのアクセスを容易にしました。恐らく人類史上、今までで一番、「書いて」「発信する」ことが密接化していて、言ってしまえば「書く」と「発信する」が同義になっているような気がします。ツイートも書くイコール発信する、だし。だけど(だから?)「書く」ことへの責任というのは「発信する」の責任と一緒になって、より分かりやすい形で私たちの目の前にある気がする。

ただ見ていて思うのは責めてる人と責められている人の会話がマジでかみ合ってないなということ。というのも恐らく責めている人は「他人のセクシュアリティを勝手に描くな」という「書く」ことの当事者性の話を主にして、そのうえでゾーニングという「発信する」ことの話をしているのに対して、責められている人はゾーニングの定義という「発信する」ことを中心にして話をしている気がする(あくまで私の観測範囲では)。

これって「書く」「発信する」が密接化して同義になりつつある今のネットだからおこっちゃうのかなぁとたま~に思います。実際どうかは知らんけど。

結局ナマモノの話で大事なのは「当事者性」とその上でのゾーニングという「書く」「発信する」の2点であって、だけどここがグチャグチャだから人によって意見が割れて(というか話す前提が変わって)うまく話し合いが進まないのでは、と思うときがあります。

ゾーニングはもちろんあらゆる対象において必要とされるものなのですが(身近ではコンビニのエロ本とか)、この「当事者性」についてはまだまだ話し合いが未発達なのだとも感じます。しかもそもそも当事者性って難しくて、例えば震災では「亡くなった被災者の人」は当事者だけど「生きている被災者の人」は当事者であったり非当事者であったりする。ナマモノにおいては「本人」が当事者なのだとして、その本人が「●●君とのCPかいていいよ!」って言ったところでこの論争は絶対終わらないだろうし、そう考えると当事者の範囲ってなんだ?ゾーニングってなんだ?そもそもこの論争ってなんだ?と頭がこんがらがってしまう。難しい。だから一向に終わらない論争なんだろうけど。

ともかく「発信する」とともに「書く」には責任が負うし、自由には「責任」が残念ながらつきもので、そのうえで楽しんでやっていきたい。という話がしたかった。

私はこれからもうんうんと唸りながら「書くこと」の危うさや責任について、できるのなら全うしていきたいなぁと思う。

ネット社会が「書くこと」へのアクセスを容易にして色々と責任を生んだのかもしれないけど、やっぱりネットがあるからこそ生まれた文字が本当に本当にたくさんあるので、一概に良い悪いとは言えないし、やはり新しく生まれた「自由」には新しく生まれた「責任」が伴ってしまうのだと思う。

とりあえずみんな「発信」の責任は全うして、アイスケースに入ったりバカッターはやめよ~~~な!(^-^)