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刀ミュくんはゴジラになりたい

のではないかと思います。

このエントリは以前書いた「髭切膝丸双騎出陣は賛否両論だから意味がある(及び刀ミュのコンテンツ力について)」というエントリを受けた、付属的な内容になります。そこに書き忘れていたことやぼんやり思ったことを追記していこうかと思います。

highb.hatenablog.com

 このエントリは個人的意見に過ぎませんが、投稿ツイートのインプレッションが25万ほど、ブログへのアクセスが1日数万ヒットとなり、思ったより多くの刀ミュや俳優や刀剣乱舞のおたくに読んでいただき、また多くの意見をいただきました。

それらは肯定的意見もあれば否定的意見もあり、やはり双騎は今までで一番賛否両論の舞台だったんだなぁと深く実感しました。

 

話は少し変わりますが、以前『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の映画を観た際、以下のような感想を抱きました。

highb.hatenablog.com

結局そこにあるのはゴジラの多様性ではないかなと思った。
(中略)

楽しめるかは人それぞれだし、「楽しめる人」と「楽しめない人」がいるといういわば偏ったフェチの映画を作ってもコンテンツが成り立つくらい、ゴジラというコンテンツには絶対にぶれない主軸があって、その上で様々な多様性が存在しているんだなと。これってファンからしたらとんでもなく贅沢なことなのでは?私は残念ながらゴジラのファンではないのでよくわからないのだけど、ものすごくゴジラファンがうらやましいなと思った。ぶれないくらいの主軸が、つまりそれ単体で十分なコンテンツ力を持つ推しってちょ~~最高ジャン。
今回のKOMも、あらゆるファンの理想を適度にカバーしつつ無難に……というひよった映画をつくろうとしていたら、たぶんわたしは楽しめたけど、楽しめても楽しみ切れない人が物凄く生まれたと思う。
何かを捨てて何かに専念する、そういう映画をつくる決断をするのはすごく難しいし、作り手にそれを委ねることができるゴジラさんのコンテンツ力はものすごい。国民的ヒーローになってもよいんじゃないだろうか。
私は残念ながらゴジラを楽しみまくれはしないタイプの人間だったけど、そういう人間が出てくることはむしろ、消費者のあらゆるニーズの受容の可能性を浮き彫りにするし、ゴジラにはそういう可能性があるんじゃないかな~と思うと、それを好きなファンが羨ましくなりました。という感想です。

ゴジラKOMはハリウッドゴジラで、また「ゴジラ」というコンテンツは多くの作品が存在します。いわばファンアートのように、多くの人の手によって、ゴジラはそれぞれの解釈と生命を与えられ、スクリーンで生きてきました。シンゴジラはその分かりやすい例で、あれはまさに「ゴジラというコンテンツの多様性」を象徴しているのではないかと思ったり。

私はKOMを「そんなに楽しめなかった」人間なのですが、それゆえこの映画を通して「ゴジラというコンテンツの果てしない可能性」を感じました。何かを捨て何かを選ぶ、賛否が起こってしまうような、何かに偏った作品を作ったのだとしても、それとしてゴジラは成立する。なんでかって、ゴジラにはとんでもない強度があるからです。人間であるならばスター性であるし、作品であるならばコンテンツ力です。

もちろんゴジラには今までの歴史と、多くのファンが存在します。ドラえもん鉄腕アトムと同じ、たいていのコンテンツにはなかなかたどり着くことのできない境地です。

 

双騎を受けて、私は上エントリで以下のように感想を書きました。

新しいことを始めるのは、大原氏の言葉を借りるならば「強度」を手に入れようとしているからだし、その強度とは包括的なコンテンツ力であると思う。
双騎は実験的な場であったが、賛否両論であるということはむしろ刀ミュのコンテンツ力の向上を試みているということであり、賛否両論があるからこそ意味があるのだと思う。

ものすご~~く平べったくわかりやすく言うならば、刀ミュはゴジラみたいな強さを手に入れようとしているんじゃないのかなと思いました。それが冒頭に戻ります。

ゴジラは凄いです。ああも多くの解釈と生命を与えられてなお、ゴジラという強い軸があるゆえに作品は成立します。ゴジラには並々ならぬコンテンツ力があります。

 

刀ミュは刀剣乱舞のメディアミックス作品で、刀剣乱舞そのものではありません。

刀剣乱舞というものを下敷きにし、その上に「刀ステ」「花丸」「活撃」などのメディアミックス作品は成り立っています。そういった様々な派生が存在してなお、刀剣乱舞の世界が揺るがないのは、そもそもの「刀」というモチーフに歴史や逸話を含めた強いスター性、つまり強いコンテンツ力があるからだと思います。(刀剣乱舞が栄えたのにはメディアミックスの力と、キャラクターカタログ的な側面による二次創作の力があるからだと思いますが、話がずれてしまうため今は置いておきます)

そういった刀剣乱舞の上に成り立つ刀ミュは、刀剣乱舞としての強さは持っています。刀のスター性がありますから。でも刀ミュというコンテンツそのものに着目したとき、そこにはまだ強度はありません。刀ミュとしての強度を手に入れない限り、それは「刀剣乱舞の派生」であるという域を脱することはできません。

しかし「派生」の域を脱さないというのは、コンテンツとして「つまらない」と言わざるを得ません。辛辣に言うならば、二流のコンテンツだと思います。

 

刀剣乱舞のメディアミックスはそれぞれのメディアの特性が活かされています。なので刀ミュはネルケの特性を生かしアイドル的要素が取り込まれており、そうして地盤を固めてきました。

これはツイートでも言っていたのだが、泥団子を固く強く美しく光るものにするためには、土以外にも粘土や砂や水が必要だ。
刀ミュおよび2.5において、垢抜けることの重要性は常々言われてきた。刀ミュの脚本御笠ノ忠次さんはいつかブロードウェイで刀ミュを上演したいと語るが、それは単なる夢物語である以上に、垢抜けることの目標を語っている。おなじく御笠ノ忠次さんは、2.5がまだクオリティが低いことを指摘し、演劇としてまだまだ成長していかねばならないことを語っている。
土で固められた泥団子は弱く、美しく輝かない。双騎という新たな要素を取り入れることが刀ミュを強く美しく輝かせることのひとつの契機となることを期待し、双騎は行われたのではないかと感じた。もちろん粘土や砂や水の分量を間違えてしまうと団子は壊れるかもしれないし、鈍く輝くのみとなるかもしれない。

これは双騎のエントリで書いていたことですが、そうして固められた地盤(引用で言う泥団子の土)に、双騎というエッセンスを取り入れたことで、コンテンツ力の向上を図っています。

そのコンテンツ力の向上の行く末の理想がゴジラみたいな存在じゃないのかなぁと思います。様々なコンテンツをぶつけてもなお、「ゴジラ」として確たる存在がある。ゴジラは賛否両論を受け入れる余裕があるくらいのスター性(つまりコンテンツ力)がある。ゴジラはどこまでいっても揺らぐことがない。でも多様なコンテンツになることができる。

先に書いた双騎のエントリでは「コンテンツ力の向上」がぼんやりとしていてわかりづらかった気がするので、具体的な例としてゴジラを挙げてみました。少しの追記です。