現金満タン、ハイオクで。

サブカルチャーがだいすき。ツイッターの延長なので詳しくはツイッターを見てくれ。

【ガチ恋の妄言】推しに抱かれたいけどセックスしたいわけじゃない

と常々思います。思いませんか?思うという前提で行きます。

たぶんセックスがしたいガチ恋の皆さんもいるとは思うのですが、私はセックスをしたいと思わない派なので、セックスをしたいとは思わない「抱かれたい」とは何なのかについて日頃考えています。

 

よく推し(特定の人物ではなく、次元を問わず任意の存在とします)を見てると「抱かれてぇ~~~~~~」と思います。抱かれたいんです。ただここで「セックスがしたいんだね?」と言われると「それは違うんだよなぁ」となります。抱かれたいということはセックスがしたいのかもしれませんが、少なくともセックスその行為をしたいとは思いません。
どこをどうして、ああ触って、こう触られて、みたいな具体的なセックスの手順を踏みたいとは思わない、想像ができない、という意味での「セックスがしたいわけではない」です。

highb.hatenablog.com

ではなぜ「抱かれたい」と思うのか。そのことについて考えてみると、「抱かれたい」には2種類の理由が作用しているのではと思いました。

 

1つめは「シンプルにかっこよくて好き」だから。これは三浦春馬綾野剛を見たときに特別ファンではない人も言ってしまう「抱かれてぇ」であり、わりと普遍的な「抱かれてぇ」ではないかと思います。私も三浦春馬を見ていたらつい言ってしまいます。
これは単純明快な「抱かれたい」ですよね。たぶん。
推しがかっこよすぎて綺麗すぎて好きすぎるので「抱かれたい」になるんですよね。ね、ルルーシュ

 

2つめ。これはみんながそうであるかは分かりませんが、一言でまとめるならば「コネクトしたい」という原因
好きという感情は尊いです。その一方で、「好き」は対象がいないと成立しません。つまり「好き」を抱いた時点で、自分と推しが別々の人間であることを認めてしまうことになります。ジレンマです。「好き」になればなるほど相手に近づきたいという感情は高ぶり(それは物理的な距離とは限りません、好きな人に嗜好などが寄っていくのもその1つだと私は思います)(なお好きな人と距離を置きたがるタイプの人もいます)、高ぶった先に、より近づきたくて「一体化したい」という欲求が出てきます。
少なくとも私はこの「一体化したい」という欲求をよく感じます。うちの愛犬や家族なんかに対しても、愛しくて仕方ないのに別々の存在であることが悲しくてさめざめと泣いてしまうときがあります。

私は無意識のうちに、小説(小説っていうのバリはずいけど)で恋心を表すときに「相手のうなじに手を差し込みたい」と表現することが多いことに気づきました。私にとってよりシンプルに表現しようとしたら、相手のうなじに手を差し込みたいのが恋だということになります。相手の白いうなじに手を差し込むということは、互いが粘土のようにとろけて、そこから彼我の境目がなくなって融合するということ。それを無意識に望むということは、性欲を伴わない形での「抱きたい/抱かれたい」の成立で、これが推しに対しても「抱かれたいけどセックスしたいわけじゃない」という感情を抱くに至っている気がします。たぶん。

 

そしてこの「一体化したい」にも先天的なものと後天的なものがあり、私のようなタイプは先天的に同一化欲求があるんじゃないかなぁと思います。と同時に後天的なものもあり、その原因のひとつに「金で繋がり続けることが虚しい」があるのではないかと思いました。
というのもそのときちょうどホストのエースをしている友達と話していたのですが、彼女は私の話を聞いて「分かる」と言ってくれました。
好きな人間の時間や存在を金で買えるのなら安いものだし、そういったコンテンツに金を出すこと自体に魅力を感じてもいます。が一方で、金という非常に即物的で俗物的なものでしか推しを買えない、推しにコネクトできない、その構造自体になんともいえない気持ちになるときもある。そういった感情が重なって、無条件で推しの中身にコネクトしたい、一体化したい、「抱かれたい」に繋がっていく土壌が形成されていくのではないかとも思います。なんてはた迷惑な感情ですかね。これは一例であって、一概には言えませんが。

 

 

そしてちょびっと思ったのが、2次元コンテンツの中でも特にソシャゲはガチ恋を生みやすいんじゃないかということ(ぼんやり思っただけですが)。


私の推しはソシャゲが生まれる前のコンテンツの男なのでソシャゲキャラではないのですが、私はあんさんぶるスターズを通して「ソシャゲのシステム作ったやつ来世ぜったい人間じゃねぇな」と思いました。それくらい鬼のようなシステムで、マジ最初に考えたやつ人間の心なさすぎだろと思いました。ソシャゲを愛する人がいたらごめん。
とにかく金を徴収する超資本主義的経済ができあがっているのですが、金は執着を生みますコンコルド効果でも分かるように、引き返せなくなります。引き返せなくなればなるほど対象に価値を見いだそうとしてしまいます。ここまで書いたら完全にパチンカスですね。でもソシャゲは、依存性は麻薬、リスクはギャンブルと呼んでいるくらいなので(私が勝手にですが)、実質それらと変わりません。そしてギャンブルと違うのが対象にガチ恋できてしまうということ。対象に価値を見いだそうとした結果、恋が生まれることはありえなくないんじゃないか?
なんてことを昨今のガチ恋ブームのなか思っていました(なんか最近ガチ恋多くないですか?)

 

そのことはまた別の話ではありますが、ガチ恋として生きる以上この「抱かれたいけどセックスしたいわけじゃない」と付き合っていかなければいけないのが難儀だなぁと思います。

 

というのも、結局セックスがしたいわけではないので、目標が叶うことはありません。それよりももっと複雑で難しいことを彼(任意の存在とします)に望んでいます。

好きになればなるほど、相手と別々の存在であることが苦しくて一体化したくなります。抱かれたくなります。でもそれは肉欲で解消することはできないので、永遠に飢えるしかないということになります。そう考えるととんでもない業を背負ってしまったなぁという気にもなるんです。

なのでガチ恋の人に出会ったら優しくしてあげたい。優先座席とか譲ろうと思う。

 

少し話は戻って。

そしてそれらの欲求を満たそうとしたところ、なぜ「抱かれたい」にたどり着くのか。それはやっぱり人間として生きてきて、絶対に交われない他者たちがなるべく深く交わるための方法が「セックス」それしかないと思ってきたからなんだと思います。結局心の本気度を確かめるのが肉体の交わりしかないという風潮は確かにあるし、そういうのを忌み嫌いながらも、結局すり込まれたそれに勝てない。相手の胸に手を差し込んで心臓をわしづかみにできたならそれでいいし、相手の子宮に帰ることができたのならそれでいいけど、現実には不可能だし、カニバリズムを望むようなサイコな発想は凡人の自分にはない。凡人なので結局今まで誰かがなぞった形でしか、自分の欲求の発散方法を見つけられない

ガチ恋の各位に媚びを売るような言い方になりますが、みんなそれぞれ自分にしか抱けない思いを抱いてるかと思います。まあ賛美するつもりはないし、それらは対象が三次元であるならクソはた迷惑な片思いにもなりかねないです。

でもまぁ何にせよ、私は今までの私を作ってくれた彼(任意)への思いくらい自分で表現したいので(「抱かれてぇ」に頼らずに)、思いつくままに自分の思いを文章にしています。妄言を書いているのはそういう理由もちょっとあります。

100年後とかに自分だけの言葉でこの思いとか情念とか呪詛とか恨みとかを彼に伝えられたらいいなと心底思います。