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刀ミュにおける三日月による世界の可能性の受容(及び脚本のフィクション性について)

葵咲本紀を観終わり、刀ミュの三日月のスタンスについて思ったことがあったので記していきます。正直合ってる自信はないので、自分の思考のメモ書きになります。(葵咲本紀のネタバレを含みます)

 

まず私が刀ミュの世界で三日月が成し遂げようとしていること(あるいは三日月という機能における作用)は『世界の可能性の受容』ではないかと思う。それはつまり、「Aちゃんがリンゴを食べたけど、食べなかったかもしれない」とか、フラれたBくんがCちゃんと結ばれたかもしれない結末とか、身近なところでいえばそういう『可能性』の話だ。
言い方を変えるならば、『世界の揺らぎを受け入れること』かもしれない。

私がまずそう思うに至ったひとつの出来事は、つはものどもがゆめのあとにおいて、三日月が唐突に義経を逃がしたことだった。正直あの場面は唐突で、なぜ「生きろ」と言ったのか最初は分からなかった。
三日月は阿津賀志山異聞で一度は殺した義経の生を促した。この2つの出来事で、義経は「生きてるかもしれないし死んでるかもしれない」という状態になった。
つまり、義経が生き延びたか本当に死んだかそうか、その可能性を受容する、揺らぎを受け入れることになる

葵咲本紀において、三日月は刀剣男士の存在を明かして、鶴丸らの部隊に裏から手を貸している。それに対して明石は「歴史変わってもうてるやん」という反応をする。そう、歴史はもはや変わってしまっているのだ。
だがあくまで『表向きの歴史』だけはつつがなく進んでいる

また、信康が検非違使を殺すか村正に問われ全員で決意するシーンについて。あれは、あくまで清く正しい歴史だけを善とする検非違使を信康自身が刀剣男士とともに殺すこと、つまり本来死んでいるべき(刀剣男士としては殺すべき)信康が生きている歴史を、脚本が許容するということのメタファーになっているんじゃないか。

脚本が許容する、つまり刀ミュの世界観が許容するということ。
鶴丸は葵咲本紀の終盤で「この世界には三日月宗近という機能が存在する」と語る。一連のことが全て三日月の働きかけであるならそれは世界の働きかけであるし、世界がそれを許容するなら三日月が許容するということだ。


結びの響始まりの音で物語を持たざる巴が登場したこともそうだが、刀ミュの世界はどんどん「いたかもしれないしいなかったかもしれない」「そういう可能性も歴史にはある」という、本来であればひとつの正史を守るべき刀剣男士のスタンスとはずれた方向性に傾いてきている。

あくまで『表向きの歴史』がつつがなく進めばいい、そういうことだ。表向きさえ整っていれば真実がどうであってもいい、そのことを如実に表しているように思える。
葵咲本紀における貞愛のキャラクターの登場は非常に分かりやすく、「歴史から消されても生きている人物もいて、表向きの歴史が真実というわけではない」ということを示している。

(みほとせの子守唄のラストシーン自体も、家康が彼岸と此岸の狭間にて、かつての寵臣と息子が生きていて自分を見守ってくれているという夢か現か分からない演出にされているようにも思える。葵咲本紀で信康が生きていることは脚本上で明かされたのでなんとも言えないが、みほとせのラストシーンもまた『真偽の分からない可能性の揺らぎ』であるようにも受け取れる)

 

そこに意味を見出すならば、先述したとおり、「世界の可能性の受容」言い換えるならば「世界の揺らぎを受け入れる」という思想が色濃く出てきているのではないか

 

ここから先は私の憶測になるしまだまとまっていない部分も多いのだが、三日月は様々な世界線を経験しているということを『つはもの~』にて語る。それらの世界には今剣や岩融のみならず、膝丸や髭切らも存在していないこともあった。
三日月は仲間である今剣や岩融、膝丸、髭切、のみならず様々な人やモノ、いやこの世界そのものすら、「存在したかもしれない」という可能性を創造したいのではないのだろうか。(この目的については分からないんだけど!)

三日月はラスボスではなくとてもやさしい存在だと思っているので、その目的が恐ろしいものだとはどうしても考えにくいのだ。優しいものであればいいなと思う。そう思うと、三日月が愛した世界全てが「ちゃんと存在したかもしれない」という、存在の可能性を残したいのではないかなと私は思った(全然違うかもしれんけど)

 

ところで話を変えると、世界はもはや個人物語が圧倒する時代だと思う。冷戦も終わり、世界を牛耳っていた資本主義vs共産主義の巨大な物語もなくなった。人はもはや物語によるべなき存在であるかもしれないと思う。

70年代から始まったオカルトブームの陰には、青少年たちの「自分の力を自分で発掘しないといけない」という思いがあり、自己開発のためのオカルトに傾倒していった。また90年代になると、管理社会が進む中で、逃げ道としてのオカルトも発達した。そして終末論が来る。

若者たちは冷戦の終わりや終末論の失敗を経験し、どんどん世界に大きく立っていた巨大な物語を失っていく。戦争があれば、人は自分自身のことを考えることなく、集団の語る大きな物語に身を任せて立っていられる。けれども時代は「自分のことは自分で考えろ」「自分の人生は自分で決めろ」という個人主義的な方向に向かっていって、よるべをなくしたところへオカルトや新興宗教のつけいる隙ができていった(オカルト自体も宗教めいた方向へ向かっていったのだが、今はそれは関係ないので置いておく)。

「フィクション」という話に限って言うなら、国の対立という大きな事態を招き世界を二分した冷戦の終わりとともに、世界は大きな物語を解体し失った。また科学進歩思想や物質主義も破綻し、人は「私」探しを始める。

そこから登場したのが、フィクションにおける個人物語の多さであるらしい。
これは自然な流れであって、例えば平成ライダーは勧善懲悪モノというよりは「正義と正義のぶつかりあいだ」というような話が多い(敵のライダーが登場したり)。日本で一番ヒットした現代漫画であろうワンピースだって、あれは見方を変えればルフィたちの存在は悪にでもなる海賊であるし、単純な構造ではない。
なにもゼロ年代以前にそういったフィクションモノがなかったとは言わないが、明らかにゼロ年代では勧善懲悪モノはウケず、「君には君の正義が、僕には僕の正義がある」というような話が増えている。というか殆どなんじゃないかな?

 

ということを踏まえて刀剣乱舞の話に戻ると、そもそも刀剣乱舞の世界の戦い方は非常にプロパガンダであると思う。刀剣男士の姿は見目麗しい美男子であるのに対して、敵の姿は戦隊ヒーローの敵キャラみたいに「いかにもな悪者」に描かれ(少なくとも我々の目にはそう映るよう設定され)、敵の言い分は聞くことなく、「歴史を変える悪」として征伐をする。この勧善懲悪の構図が揺らぐのが検非違使の登場以降ではないかと思うが、少なくとも刀剣乱舞の世界観の政府の戦い方ってえげつねぇなと思っちゃうのが本音である。

刀ミュの脚本はその勧善懲悪のプロパガンダ的戦い方からは徐々に離れていっている。そもそも阿津賀志山異聞においては戦隊ヒーロー的な戦い方が色濃く(これは似たようなことを演出の茅野さんが言っていた)、比較的勧善懲悪の形に近かったように思うのだが……。
刀ミュにおいては勧善懲悪の形ではなく、個人物語の尊重を行う、非常にゼロ年代以降の現代らしいフィクションの創造が行われている。

如実なのは、結びの響き始まりの音において巴が敵の命の使い道を尊重したこと
彼らが自分の意志で自分の物語を選び取ったことを尊重している。またそのとき敵の声のエフェクトが外れ、自分たちと同じ生身の人間(という表現はおかしいが)であることを強調する演出がなされている。

葵咲本紀においては明確に明石の台詞で「正義と正義のぶつかり合いや」「こいつ(敵)とあんさんの違いはなんですやろ(違いはないやろ)」という言葉が登場してくる。

またそもそも刀ミュで描かれるのは家康のような「勝ち組」だけでなく、義経新選組といった「負け組」もいる。明石の言葉を借りるなら「勝ったほうが正義のなかの正義、負けた方はいつだって悪者や」というように、悪モノにされてしまった者たちにも正義が存在して物語が存在したのだということを描いている

刀剣男士たちは徐々に脚本を通じて、「敵にも敵の正義がある」「敵にも敵の物語がある」ということを知っていき、それを尊重していくようになっている。そして自分の命の使い道についても考える。
これは要するに刀剣男士というモノが個人物語を模索しているということであり、それは紛れもないヒトの営みである。ということは「物なりや、人なりや」という真剣乱舞祭2016のコンセプトに当てはまっていくことになる。

どこまでそれが意識づけられて創作されているかは分からないが、刀ミュの脚本はゼロ年代以降の個人物語の影響が色濃く、また刀剣男士たちが個人物語を模索し始めているのではないかということが言いたかった

また「世界の可能性の受容」とはつまり、歴史という体系的な巨大な物語ではなく個人個人の物語にフォーカスしてそれを尊重するという意味であり、三日月のスタンスはここにかかわってくるのではないか。でもそれは歴史の否定につながるのかもしれない。だから明石は三日月のやろうとしていることを「歴史変わってもうてるやん」と批判したのではないか。

(ということを考えると、明石の「全てを救えないのならだれも救えていないのと同じだ」という台詞は非常にこわいのだが、明石の今後の展開にはものすご~~く期待をしている)