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サブカルチャーがだいすき。ツイッターの延長なので詳しくはツイッターを見てくれ。

人間の価値は魂そのものに付属するはず

 

人間の価値というものは、その人の魂そのものに付属するはずじゃないかと思う。綺麗事かもしれないが、そうであればいいと思う。

 

京アニの件はあまりに甚大な被害で、迂闊に軽率に「お気持ち」の表明はしたくなかった。だから、冥福を祈る気持ちは勿論当たり前にあるが、なるべく触れないようにはしてきた。迂闊に表現してしまうことが、彼ら彼女らの命の価値に触れるようで、気が引けてしまったからだ。

 

しかしツイッターのみならずマスメディアでの触れられ方を見ていたら、違和感を覚えてしまう。勿論全員心の底から被害者を悼み、悲しんでいることは分かっている。前提として明記しておく。 

 

京アニだから悼むわけではない。被害者がクリエイターだから悼むわけではない。しかしあまりに京アニの実績が輝かしいからか、皮肉にも世間は被害者たちのクリエイターの一面にフォーカスし、被害者たちの命そのものというより輝かしい実績などのクリエイティブな人材を失ってしまったことを悼むような形になってしまっている

京アニに経済的な支援を行うことは大事だ。命は戻らない。せめて私たちにできることは経済的支援だけだ。グッズを買ったり映画や配信を見たりすることが支援につながる。

でもそれが一人歩きしているような印象を受ける。金はあって困らないから、別に「やめろ」なんてもちろん思わないけれど。

重ね重ねだが、金はあって困らないし私たちにできることは経済的支援なのだから、まあ早くてもいいとは思う。アニメイトの募金などは私も協力をしたいと考えている。しかし一方でちゃんと人命そのものを悼むことがどこか置き去りになっている印象を受ける。悲しんでても人は帰ってこない、できることをすべきだ、というのは、1日やそこらで外野が言うのは早すぎるなとも思う。そしてまた、おすすめの京アニ作品をおすすめしたり、またおすすめをしてほしいと望んだり、どこか一部祭のようになっている感も否めない。

まずは命そのものを悼むべきではないかと。命を悼むことと同時にあってこそ、経済的支援は意味を持つはずではないだろうか。

 

わたしは、京アニのニュースが流れた当日、まだ当日であるにも関わらず、被害者の人命そのものでなく「京アニ」であること「クリエイター」であること「若く未来ある優秀な人」であることという付加価値を悼む声が挙がることに、うまく言えない虚しさを覚えた。被害者が京アニの優秀なクリエイターではなく無職ニートの集団だとしても、若く優秀な人材ではなく老い先短い老人であるとしても、本来は同等に悼まれなければならない。しかし現実はそうはならない。

わたし自身もやはり「京アニ」の「クリエイター」である「若い人たち」が無惨に理不尽に命を奪われたことに、悲しみを感じてしまったからだ。

 

障がい者が大量に殺されてしまったとき、果たして世間は世論はこんなに悲しんだだろうか。「肯定はしないけど、やっちゃいけないけど、まあ私には無関係だし」という態度が、「ふつうの人」になかったとは決して言えない。一部心ない言葉がネットには流れ、加害者の言葉を「行為は許せないけど言ってることはわかる」と肯定する人もいた。

被害人数が変わってしまうので正確な比較にならないが、風俗嬢と客がソープランドで火事にまかれ亡くなったとき、世間はこんなに悲しんだだろうか。窓も殆どなく、狭い一室で火に迫られ亡くなっていく恐怖は想像が及ばないほどで、しかし世間はあんなに悼んではくれない。

人の価値は命に付属しないのだと思う。悲しいけれど、それが現状だと思う。

 

重ね重ねになるが、京アニの件でみんなが苦しいほど悼んでいるのは承知の上だし、その人に差別意識があると言いたいのではない。しかし無意識に、無自覚に、人の属性で価値をプラスしていってしまうことは確かにある。

 

京アニの件で、若く才能とやる気があるクリエイターたちを「まだまだ先がある人たちだったのに」「日本文化の損失だ」と真っ先に嘆く人を見ると、「きっと私がいま殺されても世間はこんなに悼まない」ことを実感し、少し苦しくなる。(日本文化の損失に繋がることは事実だと思うが、真っ先に命そのものではなく付加価値を悼む声が出ることに違和感を覚える)

私は若いが、それ以外なにもない。美しくもなければ、世間に誇れる仕事もしていない。前までずっと夜の仕事をしていたが、何も持たない私がなにかしらの原因で店で死んでも、殺されても、たぶん世間は誰も悲しんでくれないのだ。京アニの件はそれを痛感した。

 

人の価値は魂に付属すべきだ。

しかし現状、例えばセクハラを受けた女性の苦しみを理解させるとき、「彼女も誰かの娘で~誰かの姉妹で~誰かの母で~」というよくある台詞がある。誰かの大事な娘、これは恐ろしい言葉だなと思う。誰かの大事な存在でなくても、誰にも愛されていなくても、セクハラや性犯罪は受けるべきではない。その当たり前のことを分かっていながらも、そこに意識の届いていない言葉が流布している。この世の中には誰にも愛されずに育った人はいて、その人たちの肯定感のためにも、「誰かの大事な存在だからダメなんだよ」という古くさい言葉は平成に置いてきたかったなとちょっと思う。

 

これら全ては発言者には当たり前に悪意なんてないし、実際わたしも言いそうになるし、そしてまた発言者を「差別だ!」「配慮が足りない!」なんて切り捨てることは早計すぎるとおもう。

 

人の価値は魂に付属していない。そのことを日々痛感する。

ただそのことを自覚して、我々の価値を我々の魂そのものに付属させていけるよう、頑張っていかないといけないんじゃないかなと思う。それは失われてきた命のためであり、生きてきた命のためであり、生きている命のためであり、いずれ確実に失われる私達の命のためでもある。

いつか私が死んだとき、私の名前も、性別も、年齢も、名字も、肩書きも、仕事も、家族関係も、何もかもが関係なく、誰かに悼んでもらいたい。そんなことが叶えばいいなとちょっぴり思っている。