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『ミッドサマー』のバッドエンドな見せかけの楽園がほしい

世間をざわつかせる名作との呼び声高い『ミッドサマー』を観ました。以下映画.comからのあらすじとなります。

不慮の事故により家族を失ったダニーは、大学で民俗学を研究する恋人や友人たち5人でスウェーデンを訪れた。彼らの目的は奥地の村で開催される「90年に一度の祝祭」への参加だった。太陽が沈むことがないその村は、美しい花々が咲き誇り、やさしい住人たちが陽気に歌い踊る、楽園としか形容できない幸福な場のように思えた。しかし、そんな幸せな雰囲気に満ちた村に不穏な空気が漂い始め、妄想やトラウマ、不安、そして恐怖により、ダニーの心は次第にかき乱されていく。

日本公開前の当初は『ミッドソマー』と呼ばれていた本作ですが、『ヘレディタリー 継承』で映画好きの間では未曾有の傑作との評価を得たアリ・アスター監督の作品とあって、公開前からインターネットでは尋常じゃないハードルの高さとなる期待を誇っていました。そしてその期待を裏切らず、ツイッターでは来る日も来る日も、ミッドサマー超トラウマ、晴天が怖い、よくこんな地獄を作ったな、という感想が流れてきました。

私は基本的に斜に構えたオタクです。幼少期から名探偵コナンが好きで毎年映画も見に行っていたにも関わらず、安室とかいうオタク受け抜群の男が赤井とともに人気を博したがために、「ミーハーだと思われたくない」という謎の自意識を発揮し映画に行かなくなったくらい、ひねくれたオタクです。悔しいのは安室がオタク受け抜群なのが「理解(ワカッ)」てしまうこと。アカアムさんがオタク受けいいのも理解(ワカッ)てしまう。私も純黒を観てみたいが、怪盗キッドに憧れていてなおかつ学校で「コナン博士」の異名をほしいままにした小学生の私のプライドが許さない……という小さな意地のせいで(可愛いですね)コナンの映画にはいかなくなり、安室の女が右傾化するのをパブサして酒の肴にしていました。最悪ですみません。コナンの話が長くなりましたが、私が器の小さいひねくれたオタクであることを理解していただければ結構です。

案の定ミッドサマーに対しても同じ現象が起きました。ツイッターで起きているミッドサマー大喜利にイライラして仕方なくなりました。本当にクソな性格ですみません。

そんなわけでオタクのオタク構文によるワンチャンバズらせたろwみたいなツイートを憎みつつ、ある晴天の日、私はミッドサマーを観に行きました。

 

以下ラストに触れるためネタバレを含みます。

 

結果から言えば「普通に良かった」です。良い意味でも悪い意味でも想像通りで(展開が想像通りなのはアリ・アスター監督も分かってのことでしょうが)、本当~~~に良意味でも悪い意味でも「想像以上でも以下でもない」です。トラウマにもならないし、晴天にも恐怖を覚えないし、アリ・アスターのねちねちした湿っぽい嫌な人間の内面の描き方には感嘆しますが、ツイッターでハードルが上がりすぎた。……などと言うと、本当に斜に構えたいだけの自称評論家みたいというか、「私は分かってます」感を出したいゲロみたいな人間のようですが、決してそのような意図はなく、純粋な自分の感想です。最終的に私は「2020年の洋画ベストテン」を選出するときに6~9位くらいの微妙な位置にミッドサマーを入れてしまうのだろうか。自称評論家のようで本当に悲しい。申し訳ない。アリ・アスター、あなたの作品は紛れもなく面白いのに。

とりあえずツイッターのオタクはオタク構文での「おもろいやろw」みたいな寒いノリの宣伝をやめてほしい。オタクの食レポは大体盛ってる(偏見失礼)。すみっこぐらしの盛りツイートで懲りてくれ。別に八つ墓村でもTRICKでもクールポコでもないです。

という愚痴を失礼しましたが、本編のラストがハッピーエンドかバッドエンドかで物議を醸しております。

少し簡単にラストを説明しますと、主人公のダニーはお祭りの中で今年の女王に選ばれ、薬も相まって楽しく過ごしますが、恋人が村の少女と子作りセックスをしているのを目撃してしまい、吐いて大号泣します。それに村の女性たちが呼応し一緒に大号泣。色々あり、祭りのシメに、村の住人とダニーの仲間から複数人の生け贄を出すことになり、最後の1人をとある住人か恋人かを選ぶ場面で、女王となったダニーは恋人を選びます。恋人は他の生け贄(すでに死体になっている人も多いですが)らとともに神殿的な場所ごと燃やされ、村の住人はそれを見ながら演劇部の発声練習よろしく大絶叫して感情を爆発させるなか、ダニーも同じく感情を表し、穏やかに笑っておしまいです。恐らくダニーはこの村で今後も暮らしていくのだろうと窺わせて終わります。

ツイッターには多く考察が流れ、この宗教(仮)が比較的最近に成立してもので信者に対しても嘘をついているのでは……などの考察も目にしました。それらは私の映画の中への疑問の答えになるものも多く、非常に興味深いのですが、私は特に宣伝でもなんでもないほぼ日記同然のエントリのためラストシーンについて思ったことのみ書きます。

上のツイートは映画に対する私の疑問にも納得いくような面白い内容であったため、引用させていただきました。

 

私はラストは客観的に見るのであればバッドエンドであると解釈しています。ハッピーエンドであると解釈する人の多くは、主人公ダニーが本当に家族的な存在を見つけられた、安息できる場所を手に入れられたからだと解釈しているようですが、私はそれこそがバッドエンドであると思っています。(本人はハッピーなら、メリーバッドエンドであるともいえますが、ここでは二者択一なのでそれに従います)

そしてバッドエンドであると解釈したうえで、私はそのバッドエンドが羨ましいとも思っています。

まずなぜダニーが家族的な存在を見つけられたことがバッドエンドであると解釈しているのかというと、それはダニーという「個」が共同体に溶けていってしまっているからです。

今は「個」を非常に重んじる時代になりました。かつて……冷戦が終わる頃まで、世界には「大きな物語」があったといいます。冷戦の時期であればそれは「共産主義」と「資本主義」と言えます。戦争の時代ならなおさらです。国が主導する、国民が一丸となる大きな物語がありました。そこでは人間の「個」は重んじられず、人は物語の一部に過ぎません。が、しかし、そういった世界を支配する物語が解体されたことにより、今度は1人1人が自分の小さな物語を生きねばならなくなりました。生の意味も死の意味もよりどころを失い、人は大きな物語に寄りかかりたくて、そこに登場したのが新しい宗教のブームであるとも言われています。その「小さな物語」があふれた世界というのは創作物にも現れており、かつては善vs悪がはっきりした勧善懲悪が多かったのが、最近は正義vs正義のような構図が多くなっております。今の少年ジャンプなんかもそういった構図が殆どではないでしょうか。とにかく今は「個」の「小さな物語」を重んじる時代です。

そんななかで主人公ダニーは村という共同体の一部になる結末を迎えます。彼らの宗教という大きな物語に呑まれてしまう終わりです。これは戦時下であったり、オウムに代表されるようなカルトではよく見られる現象であると思われます(カルトの定義は難しいし様々に議論がありますがここでは置いておきます)。直前の、村の女性たちがダニーの感情に呼応して一緒に泣くシーンといい、ラストの生け贄となった村の青年が叫んだことをきっかけに感情を爆発させる村人たちのシーンといい、彼らの感情は村の感情と一体となっています。先に載せさせていただいたツイートの考察を私個人は尊重しており、それを肯った話になりますが、この村(宗教)が最近成立したもので村人(信者)をも欺いているのだとするならば、そこには紛れもなく脚本があります。村の描く大きな物語の一部が村民であり、そこに村民の個の物語はありません。意味ありげに何度も赤ん坊が映りますが、ダニーの恋人が村の少女とセックスしたシーンからも分かる通り、彼らにとってセックスは愛の手段でも快楽のためでもなく、子づくりのためのものです。異様なまでに前戯が省かれて挿入と射精のみがそこにあります。個人の命というより、村のための命であり、そのために特化したセックスです。子供は親が育てるのではなく、旅であったり(恐らく)生け贄になったりした親の代わりに、村人たちで育てます。そもそも生まれから、人生を四季に分けられ旅に出たりして、四季を過ぎれば死ぬところからも、彼ら村民の生殺与奪は村そのものが握っており個人のものではありません

こういったところが、人によっては激しい嫌悪感を抱くポイントであると思います。人が個を失って共同体の一部となってしまうことへの嫌悪や、子作りのためだけのセックスへの嫌悪です(性嫌悪の人は辛いのかも……)。

 

以上のことを踏まえて私はラストをバッドエンドであると解釈しています。

そして私はそのバッドエンドが羨ましい。

私はよく「死にたい」の代わりに「自我を失いたい」と表現します。肉体の死が叶わないのなら、精神だけでも死んでしまいたいのです。もちろん真に幸せになれるのならそれに越したことはありませんが、それが叶わない以上、次善の策を求めています。私はそれを求めて、あえて自ら洗脳してくれるようなカルトを欲したり薬物に頼ろうかな~と思ったり戦争を待ってみたりしてました(ギリ実行はしてませんが)(現実的にはどの選択肢も困るので)。

『ミッドサマー』のラストは私の解釈ではバッドエンドですが、例えるなら世にも奇妙な物語のテーマの音楽のように、不気味なのにどこか心地いい感覚があります。どこか私はこの終わりを望んでもいるので。(伊藤計劃『ハーモニー』も同じですね)

私は生きる術を持ちません。完全に人生の路頭に迷っています。なので甘い地獄のようなミッドサマーの楽園を手に入れることができたら楽だろうなと思います。

私はどこにでもいる現代人なのでごく普通に快楽のためにセックスをしますが、そうではなく子作りのためだけにセックスをして、口は食べるためだけにあって、耳は聞くためだけにあって、ただ生まれて生きて子供を産んで死んでいくだけの生き物になりたかったし、そういう見せかけの楽園がほしかった。知識って邪魔だなと時々思ってしまったりする。ポルポトが完全に支配しきった世界に赤ん坊として生まれたら楽になれたんだろうかと空想してみたりもします(ポルポトのしたことはもちろんあれなのですが……)。

そういう意味で私はバッドエンドだと解釈しながらもその楽園を求めています。悩み苦しむことから解放されて、何か大きな共同体に寄りかかって、生死を自らで考えることもなく、感情も大きなものに包まれて、楽になりたいという、甘えにすぎないのでしょうが。ちょっと夢想してみたりはします。

 

アリ・アスター監督の次回作も楽しみですね。