現金満タン、ハイオクで。

サブカルチャーがだいすき。ツイッターの延長なので詳しくはツイッターを見てくれ。

子供が好きだから子供を産みたくない(2019/10/6の日記)

子供なんて産みたくない。……と言ったら、子供にあまりやさしくない人のような扱いを受ける。わたしも「子供を産みたくない」という人がいたら、ああ子供嫌いなんだなー苦手なんだなーと感じてしまう。

だがわたしは子供が好きだ。

小さな頃から年下の子や赤ちゃんに優しいらしかったし、いまでも無意味に赤ちゃんの動画を見たりするし、電車で乗り合わせた見知らぬ子供にはニコニコして手を振ったりしてしまう。子供もわたしのことが嫌いではないようで、公園などに行くと見知らぬ子供に遊ぼうと懐かれたり、電車で見知らぬ子に話しかけられたりする。子供連れやベビーカーのお父さんお母さんには積極的に電車で席を譲ったりドア横の狛犬ポジションのスペースを譲ったりする。(前にツイッターでどこかのお母さんがドア横などの端を譲ってほしいと言っていたので)

子供はいい。ほっぺなんて食べてしまいたいくらい可愛い。クレヨンしんちゃんの横顔になるのが可愛い。つついてみたくなるし、ぎゅーってしたくなるし、自分もいつか子供がほしいなと思う。

わたしは年の離れた妹がいるが、小さなお母さんだねと呼ばれるくらいお世話をしていたし可愛がっていた。いまでも食べちゃいたいくらい可愛い。

 

でも子供は産みたくない。……と言ったら、みんな不思議そうな顔をする。

だって虐待するかもしれないじゃないか。……と言ったら、またみんな不思議そうな顔をする。

 

子供をうみたくない理由には、経済的な理由もある。自分の将来で精一杯なのに子供なんて育てられないし、貧乏家庭で惨めな思いはさせたくない。これはよく現代の若者の意見としてツイッターで散見されがちな理由だとおもう。

が、みんなの産みたくない理由を見ていたら経済的理由が殆どで、「虐待するかもしれない」を全くとは言わないがあまり見かけない。不思議だと思う。みんな虐待する自分を考えないんだろうか。自分はしないと思っているのだろうか。

わたしはメンタルを病んで通院しているので、絶対に産後鬱になる自信がある。(自信というのも変だけど)絶対になる。なる予感しかしない。

産後鬱になったら、子供を叩いたりつねったりするかもしれない。可愛いと思えなくてネグレクトするかもしれない。わたしみたいな人間が子供を産んだら子供を不幸にする自信しかない。だから産みたくない。

それに虐待しなかったとしても、わたしの血をひいているのだから、子供もメンタルを病んで苦しむかもしれない。

未来に希望がない、全然平和にならない、そんな世界に一方的に産み落とした責任をわたしはとれない。

子供を作った人は責任をとる自信があるのだろうか。それとも世界が美しいと信じているのだろうか。どちらにせよ羨ましい。わたしは爪をかじりながらそれを傍目に羨むことしかできない。

わたしは子供という生き物が好きだからこそ、産みたくないと感じるし、産めないと感じる。わたしは世界を美しいと盲信できないし、責任のことを考えずに済む性格でもない。

一方的に産み落とした責任のことを考えるのは、わたしが父母にわたしを一方的に産み落とした責任を求めているからかもしれない。わたしが死ぬまでわたしを経済的に養えるなら、産んでも良かったかもしれないけど、まあ現実には大抵の家庭では不可能だ。じゃあせめてわたしをギリギリまで寄生させて殺すくらいの覚悟はしてほしかった。そんな覚悟もなしにわたしを産むなんて恨めしい。こんなに毎日が辛いのに。と、中学生くらいで終えるべき恨みを未だに抱いている。幼稚な自覚はある。

 

わたしが子供を産むとき、わたしはその子を殺す覚悟は決めるつもりだ。

もしそんな覚悟をせずにフツーに子供を産むのだとしたら、それを成長したと捉える人も愚かになったと捉える人もいるだろう。だから産むのは難しい。生命を作るのは難しいのだ。そしてこわい。

でもなにも考えずに産むようになるのが生き物としてたぶん正解だし、それはわたしのメンタルが治ったということなのだろう。こんなに頭はクリアなのに、今がおそらく不正解だというのも辛い。

やっぱり子供が好きなので、産みたくない。