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2019/8/23の日記(長崎旅行記)

起きたら11時だった。最近毎日が眠たくて仕方がない。
最近だと11時に起床→フルグラを食べる→11時半にまた寝て13時に起きる→なにかをたべてまた寝る→18時に起きる→なにかをたべてまた寝る→21時に起きる→風呂に入ってネットをする→1時に寝る、という赤ちゃんルーティンをしている。

いままでは気づかなかったけど、寝ると体力を使うんだなと気づいた。確実に年をとりはじめてる。最近胃もたれが酷く、胃痛のせいで夜寝れないこともある。焼きそばはソース焼きそばではなく塩焼きそばを食べるようになった。

 

先日長崎に旅行してきた。
長崎ではさまざまな場所に行ったけど、印象深かったのは原爆資料館と岡まさはる記念長崎平和資料館原爆資料館は修学旅行でもマストのスポットだけど、後者は知られていない。岡まさはる記念館では南京大虐殺慰安婦など、日本がWW2で諸外国に対して行ったことの資料が多数展示されており、また日本の戦争責任について問うている場所になっている。

私は何が正しくて何が間違っているか分からないし、当時を見ていないからフェイクも真実もなにもわからない。だけど何かを考えるとき、そして平和について考えるとき、原爆資料館平和公園では日本の被害者性が強調されて、多角的視点は育たないのではないかと危惧してしまう。したこととされたこと、それを両方見つめてこそ、平和について考えられるんじゃないかなぁとぼんやり思う。

 

 

最近世界のアップデートについていけない。人魚姫を黒人女性?が演じると聞いたときに感じた。私の中の無意識に芽生えた違和感は差別意識なんだろうかと気付き、恥じるが間に合わない。
常に新しくありたいと思うけど難しい。私は20歳をすぎてもう新しくなくなったんだろうか。私達の意識が世間の最新の状態だと見なされた平成はもうない。自分より下の代がスタンダードだと言われる時代を始めて経験しつつある。

 

わたしだけ魂の寿命が30年じゃないかとおもう。ありきたりな表現だけど、それくらい人生に対して疲れていて、魂の絞りかすしかもう残っていない気がする。絞りかす程度しかないので元気もなく、俳優やアイドルという眩しい偶像を応援する気力がない。チケットの申し込みすら上手にできないし、ホテルの手配もなにもしていない。私には偶像は疲れてしまう。惰性でインターネットをするくらいが、刺激がなくてちょうどいい。

 

文学の世界では「いまは戦後ではなく戦前である」という言葉が多用される。予兆はみんな感じている。でもそれと戦う気力も、なにかを成し遂げようとする気力も、鬱で立てなくてもうないので、戦争が始まればその歴史的初日に自殺しよう、と岡まさはる記念館を見ながら考えた。

それだけしかない自分はきっと平和を考えるに相応しくない駄目人間なんだろうと思うけど、それだけしかどうにもない。

 

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大浦天主堂

キリスト教迫害の歴史について学べる場所。信者の祈りのためではなく、殉教した26聖人のために建てられた場所らしい。案内の人に聞いた。

戦時下では戦争反対派からの転向が様々に起こり、文学が戦争へ扇動したいち責任を担っている。そんな簡単な転向を見ていると、なぜキリスト教の信者たちはかように迫害され拷問されながらも信仰を捨てなかったのか、そのことについてモヤモヤ考えてしまう。

宗教が戦争を引き起こした事例もあるし、信仰の力とは良くも悪くも強すぎるんだろうか。

わたしがキリスト教徒なら踏み絵バリバリ踏むし拷問されたらケロッと信仰捨てちゃうけどなぁと思う。

特に、昨今の事件のせいで焼死の恐ろしさが語られるなか、火炙りにされながらの母娘の「お母さん、もうなにも見えません!」「大丈夫、もうすぐ何もかもが見えるようになるから」という会話が印象深い。

火といえば、抗議のため自ら焼身しながらも微動だにせず亡くなっていった僧侶のことも思い出す。信仰はなぜかくも強いのか。

おたくなんか信者になっても簡単に他界するくせにね。

 
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浦上天主堂

被爆したマリアが飾ってあるので一見の価値あり。原爆ドームのように壊れた天主堂を保存しておく動きがあったようだが、キリスト教徒を殺した事実が鮮烈に残るのはアメリカにとって都合が悪かったようで、結局再建されたと耳にした。

ここに住んでいる司祭?が日本のカトリックにおけるいちばーんえらい人らしい。

長崎は広島に比べ全体的に祈りの街だと感じた。が、祈りが祈りを脱していないとも感じた。祈りは大事だし、広島が怒りならば長崎は祈るのがバランスもいいし、土地柄カトリックの色が強く、祈りが表出されることが多かったのだと思う。ただ、祈ってるだけでは平和はなし得ない。プロテスタントに比べたらカトリックは平和の実践が弱いのではないかという指摘もまま少しは理解できる。だけどどこまで政治に口出しをしていいのかも難しいし、宗教における平和の実践は非常に非常に難しいと感じた。ただ長崎の祈りが成就すればいいなぁと思う。


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出島。

再入場できると案内人に言われたから、中華街にいくために外に出たのに、再入場禁止だった。なんなのか。

 
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中華街。

バリ短い。昼から餃子ビールをして胃もたれで死んだ。もう若くないと言われている気がする。マジでわたしだけ寿命が30年なんだと思う。

 
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長崎はチンチン電車が一律130円で走っていてリーズナブルなのだが、バリ揺れるしバリ混むしなかなか疲れる。しかも路面を走るため何回か轢かれかけた。観光客殺しだ。

長崎は坂が多いと知りながらおしゃれを重視してヒールで行き無事死んだので、次はスニーカーで行こうと思う。

長崎では色んなことを考えすぎてちょっと疲れたので、少し休んで、それからまた行けたらいいなぁと思っている。長崎に住んでる人、足腰ちょう強そう。