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刀ミュにおける三日月による世界の可能性の受容(及び脚本のフィクション性について)

葵咲本紀を観終わり、刀ミュの三日月のスタンスについて思ったことがあったので記していきます。正直合ってる自信はないので、自分の思考のメモ書きになります。(葵咲本紀のネタバレを含みます)

 

まず私が刀ミュの世界で三日月が成し遂げようとしていること(あるいは三日月という機能における作用)は『世界の可能性の受容』ではないかと思う。それはつまり、「Aちゃんがリンゴを食べたけど、食べなかったかもしれない」とか、フラれたBくんがCちゃんと結ばれたかもしれない結末とか、身近なところでいえばそういう『可能性』の話だ。
言い方を変えるならば、『世界の揺らぎを受け入れること』かもしれない。

私がまずそう思うに至ったひとつの出来事は、つはものどもがゆめのあとにおいて、三日月が唐突に義経を逃がしたことだった。正直あの場面は唐突で、なぜ「生きろ」と言ったのか最初は分からなかった。
三日月は阿津賀志山異聞で一度は殺した義経の生を促した。この2つの出来事で、義経は「生きてるかもしれないし死んでるかもしれない」という状態になった。
つまり、義経が生き延びたか本当に死んだかそうか、その可能性を受容する、揺らぎを受け入れることになる

葵咲本紀において、三日月は刀剣男士の存在を明かして、鶴丸らの部隊に裏から手を貸している。それに対して明石は「歴史変わってもうてるやん」という反応をする。そう、歴史はもはや変わってしまっているのだ。
だがあくまで『表向きの歴史』だけはつつがなく進んでいる

また、信康が検非違使を殺すか村正に問われ全員で決意するシーンについて。あれは、あくまで清く正しい歴史だけを善とする検非違使を信康自身が刀剣男士とともに殺すこと、つまり本来死んでいるべき(刀剣男士としては殺すべき)信康が生きている歴史を、脚本が許容するということのメタファーになっているんじゃないか。

脚本が許容する、つまり刀ミュの世界観が許容するということ。
鶴丸は葵咲本紀の終盤で「この世界には三日月宗近という機能が存在する」と語る。一連のことが全て三日月の働きかけであるならそれは世界の働きかけであるし、世界がそれを許容するなら三日月が許容するということだ。


結びの響始まりの音で物語を持たざる巴が登場したこともそうだが、刀ミュの世界はどんどん「いたかもしれないしいなかったかもしれない」「そういう可能性も歴史にはある」という、本来であればひとつの正史を守るべき刀剣男士のスタンスとはずれた方向性に傾いてきている。

あくまで『表向きの歴史』がつつがなく進めばいい、そういうことだ。表向きさえ整っていれば真実がどうであってもいい、そのことを如実に表しているように思える。
葵咲本紀における貞愛のキャラクターの登場は非常に分かりやすく、「歴史から消されても生きている人物もいて、表向きの歴史が真実というわけではない」ということを示している。

(みほとせの子守唄のラストシーン自体も、家康が彼岸と此岸の狭間にて、かつての寵臣と息子が生きていて自分を見守ってくれているという夢か現か分からない演出にされているようにも思える。葵咲本紀で信康が生きていることは脚本上で明かされたのでなんとも言えないが、みほとせのラストシーンもまた『真偽の分からない可能性の揺らぎ』であるようにも受け取れる)

 

そこに意味を見出すならば、先述したとおり、「世界の可能性の受容」言い換えるならば「世界の揺らぎを受け入れる」という思想が色濃く出てきているのではないか

 

ここから先は私の憶測になるしまだまとまっていない部分も多いのだが、三日月は様々な世界線を経験しているということを『つはもの~』にて語る。それらの世界には今剣や岩融のみならず、膝丸や髭切らも存在していないこともあった。
三日月は仲間である今剣や岩融、膝丸、髭切、のみならず様々な人やモノ、いやこの世界そのものすら、「存在したかもしれない」という可能性を創造したいのではないのだろうか。(この目的については分からないんだけど!)

三日月はラスボスではなくとてもやさしい存在だと思っているので、その目的が恐ろしいものだとはどうしても考えにくいのだ。優しいものであればいいなと思う。そう思うと、三日月が愛した世界全てが「ちゃんと存在したかもしれない」という、存在の可能性を残したいのではないかなと私は思った(全然違うかもしれんけど)

 

ところで話を変えると、世界はもはや個人物語が圧倒する時代だと思う。冷戦も終わり、世界を牛耳っていた資本主義vs共産主義の巨大な物語もなくなった。人はもはや物語によるべなき存在であるかもしれないと思う。

70年代から始まったオカルトブームの陰には、青少年たちの「自分の力を自分で発掘しないといけない」という思いがあり、自己開発のためのオカルトに傾倒していった。また90年代になると、管理社会が進む中で、逃げ道としてのオカルトも発達した。そして終末論が来る。

若者たちは冷戦の終わりや終末論の失敗を経験し、どんどん世界に大きく立っていた巨大な物語を失っていく。戦争があれば、人は自分自身のことを考えることなく、集団の語る大きな物語に身を任せて立っていられる。けれども時代は「自分のことは自分で考えろ」「自分の人生は自分で決めろ」という個人主義的な方向に向かっていって、よるべをなくしたところへオカルトや新興宗教のつけいる隙ができていった(オカルト自体も宗教めいた方向へ向かっていったのだが、今はそれは関係ないので置いておく)。

「フィクション」という話に限って言うなら、国の対立という大きな事態を招き世界を二分した冷戦の終わりとともに、世界は大きな物語を解体し失った。また科学進歩思想や物質主義も破綻し、人は「私」探しを始める。

そこから登場したのが、フィクションにおける個人物語の多さであるらしい。
これは自然な流れであって、例えば平成ライダーは勧善懲悪モノというよりは「正義と正義のぶつかりあいだ」というような話が多い(敵のライダーが登場したり)。日本で一番ヒットした現代漫画であろうワンピースだって、あれは見方を変えればルフィたちの存在は悪にでもなる海賊であるし、単純な構造ではない。
なにもゼロ年代以前にそういったフィクションモノがなかったとは言わないが、明らかにゼロ年代では勧善懲悪モノはウケず、「君には君の正義が、僕には僕の正義がある」というような話が増えている。というか殆どなんじゃないかな?

 

ということを踏まえて刀剣乱舞の話に戻ると、そもそも刀剣乱舞の世界の戦い方は非常にプロパガンダであると思う。刀剣男士の姿は見目麗しい美男子であるのに対して、敵の姿は戦隊ヒーローの敵キャラみたいに「いかにもな悪者」に描かれ(少なくとも我々の目にはそう映るよう設定され)、敵の言い分は聞くことなく、「歴史を変える悪」として征伐をする。この勧善懲悪の構図が揺らぐのが検非違使の登場以降ではないかと思うが、少なくとも刀剣乱舞の世界観の政府の戦い方ってえげつねぇなと思っちゃうのが本音である。

刀ミュの脚本はその勧善懲悪のプロパガンダ的戦い方からは徐々に離れていっている。そもそも阿津賀志山異聞においては戦隊ヒーロー的な戦い方が色濃く(これは似たようなことを演出の茅野さんが言っていた)、比較的勧善懲悪の形に近かったように思うのだが……。
刀ミュにおいては勧善懲悪の形ではなく、個人物語の尊重を行う、非常にゼロ年代以降の現代らしいフィクションの創造が行われている。

如実なのは、結びの響き始まりの音において巴が敵の命の使い道を尊重したこと
彼らが自分の意志で自分の物語を選び取ったことを尊重している。またそのとき敵の声のエフェクトが外れ、自分たちと同じ生身の人間(という表現はおかしいが)であることを強調する演出がなされている。

葵咲本紀においては明確に明石の台詞で「正義と正義のぶつかり合いや」「こいつ(敵)とあんさんの違いはなんですやろ(違いはないやろ)」という言葉が登場してくる。

またそもそも刀ミュで描かれるのは家康のような「勝ち組」だけでなく、義経新選組といった「負け組」もいる。明石の言葉を借りるなら「勝ったほうが正義のなかの正義、負けた方はいつだって悪者や」というように、悪モノにされてしまった者たちにも正義が存在して物語が存在したのだということを描いている

刀剣男士たちは徐々に脚本を通じて、「敵にも敵の正義がある」「敵にも敵の物語がある」ということを知っていき、それを尊重していくようになっている。そして自分の命の使い道についても考える。
これは要するに刀剣男士というモノが個人物語を模索しているということであり、それは紛れもないヒトの営みである。ということは「物なりや、人なりや」という真剣乱舞祭2016のコンセプトに当てはまっていくことになる。

どこまでそれが意識づけられて創作されているかは分からないが、刀ミュの脚本はゼロ年代以降の個人物語の影響が色濃く、また刀剣男士たちが個人物語を模索し始めているのではないかということが言いたかった

また「世界の可能性の受容」とはつまり、歴史という体系的な巨大な物語ではなく個人個人の物語にフォーカスしてそれを尊重するという意味であり、三日月のスタンスはここにかかわってくるのではないか。でもそれは歴史の否定につながるのかもしれない。だから明石は三日月のやろうとしていることを「歴史変わってもうてるやん」と批判したのではないか。

(ということを考えると、明石の「全てを救えないのならだれも救えていないのと同じだ」という台詞は非常にこわいのだが、明石の今後の展開にはものすご~~く期待をしている)

 

 

2019/8/23の日記(長崎旅行記)

起きたら11時だった。最近毎日が眠たくて仕方がない。
最近だと11時に起床→フルグラを食べる→11時半にまた寝て13時に起きる→なにかをたべてまた寝る→18時に起きる→なにかをたべてまた寝る→21時に起きる→風呂に入ってネットをする→1時に寝る、という赤ちゃんルーティンをしている。

いままでは気づかなかったけど、寝ると体力を使うんだなと気づいた。確実に年をとりはじめてる。最近胃もたれが酷く、胃痛のせいで夜寝れないこともある。焼きそばはソース焼きそばではなく塩焼きそばを食べるようになった。

 

先日長崎に旅行してきた。
長崎ではさまざまな場所に行ったけど、印象深かったのは原爆資料館と岡まさはる記念長崎平和資料館原爆資料館は修学旅行でもマストのスポットだけど、後者は知られていない。岡まさはる記念館では南京大虐殺慰安婦など、日本がWW2で諸外国に対して行ったことの資料が多数展示されており、また日本の戦争責任について問うている場所になっている。

私は何が正しくて何が間違っているか分からないし、当時を見ていないからフェイクも真実もなにもわからない。だけど何かを考えるとき、そして平和について考えるとき、原爆資料館平和公園では日本の被害者性が強調されて、多角的視点は育たないのではないかと危惧してしまう。したこととされたこと、それを両方見つめてこそ、平和について考えられるんじゃないかなぁとぼんやり思う。

 

 

最近世界のアップデートについていけない。人魚姫を黒人女性?が演じると聞いたときに感じた。私の中の無意識に芽生えた違和感は差別意識なんだろうかと気付き、恥じるが間に合わない。
常に新しくありたいと思うけど難しい。私は20歳をすぎてもう新しくなくなったんだろうか。私達の意識が世間の最新の状態だと見なされた平成はもうない。自分より下の代がスタンダードだと言われる時代を始めて経験しつつある。

 

わたしだけ魂の寿命が30年じゃないかとおもう。ありきたりな表現だけど、それくらい人生に対して疲れていて、魂の絞りかすしかもう残っていない気がする。絞りかす程度しかないので元気もなく、俳優やアイドルという眩しい偶像を応援する気力がない。チケットの申し込みすら上手にできないし、ホテルの手配もなにもしていない。私には偶像は疲れてしまう。惰性でインターネットをするくらいが、刺激がなくてちょうどいい。

 

文学の世界では「いまは戦後ではなく戦前である」という言葉が多用される。予兆はみんな感じている。でもそれと戦う気力も、なにかを成し遂げようとする気力も、鬱で立てなくてもうないので、戦争が始まればその歴史的初日に自殺しよう、と岡まさはる記念館を見ながら考えた。

それだけしかない自分はきっと平和を考えるに相応しくない駄目人間なんだろうと思うけど、それだけしかどうにもない。

 

◆ ◆ ◆


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大浦天主堂

キリスト教迫害の歴史について学べる場所。信者の祈りのためではなく、殉教した26聖人のために建てられた場所らしい。案内の人に聞いた。

戦時下では戦争反対派からの転向が様々に起こり、文学が戦争へ扇動したいち責任を担っている。そんな簡単な転向を見ていると、なぜキリスト教の信者たちはかように迫害され拷問されながらも信仰を捨てなかったのか、そのことについてモヤモヤ考えてしまう。

宗教が戦争を引き起こした事例もあるし、信仰の力とは良くも悪くも強すぎるんだろうか。

わたしがキリスト教徒なら踏み絵バリバリ踏むし拷問されたらケロッと信仰捨てちゃうけどなぁと思う。

特に、昨今の事件のせいで焼死の恐ろしさが語られるなか、火炙りにされながらの母娘の「お母さん、もうなにも見えません!」「大丈夫、もうすぐ何もかもが見えるようになるから」という会話が印象深い。

火といえば、抗議のため自ら焼身しながらも微動だにせず亡くなっていった僧侶のことも思い出す。信仰はなぜかくも強いのか。

おたくなんか信者になっても簡単に他界するくせにね。

 
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浦上天主堂

被爆したマリアが飾ってあるので一見の価値あり。原爆ドームのように壊れた天主堂を保存しておく動きがあったようだが、キリスト教徒を殺した事実が鮮烈に残るのはアメリカにとって都合が悪かったようで、結局再建されたと耳にした。

ここに住んでいる司祭?が日本のカトリックにおけるいちばーんえらい人らしい。

長崎は広島に比べ全体的に祈りの街だと感じた。が、祈りが祈りを脱していないとも感じた。祈りは大事だし、広島が怒りならば長崎は祈るのがバランスもいいし、土地柄カトリックの色が強く、祈りが表出されることが多かったのだと思う。ただ、祈ってるだけでは平和はなし得ない。プロテスタントに比べたらカトリックは平和の実践が弱いのではないかという指摘もまま少しは理解できる。だけどどこまで政治に口出しをしていいのかも難しいし、宗教における平和の実践は非常に非常に難しいと感じた。ただ長崎の祈りが成就すればいいなぁと思う。


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出島。

再入場できると案内人に言われたから、中華街にいくために外に出たのに、再入場禁止だった。なんなのか。

 
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中華街。

バリ短い。昼から餃子ビールをして胃もたれで死んだ。もう若くないと言われている気がする。マジでわたしだけ寿命が30年なんだと思う。

 
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長崎はチンチン電車が一律130円で走っていてリーズナブルなのだが、バリ揺れるしバリ混むしなかなか疲れる。しかも路面を走るため何回か轢かれかけた。観光客殺しだ。

長崎は坂が多いと知りながらおしゃれを重視してヒールで行き無事死んだので、次はスニーカーで行こうと思う。

長崎では色んなことを考えすぎてちょっと疲れたので、少し休んで、それからまた行けたらいいなぁと思っている。長崎に住んでる人、足腰ちょう強そう。

『サマー・オブ・84』感想/少年たちの冒険を描いた青春ジュブナイルスラッシャー映画

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(画像:サマー・オブ・84 : 作品情報 - 映画.com

 

あらすじ

思春期まっただ中のオタク少年たちが隣家の警察官を殺人鬼と疑い、独自に調査を始めたことから、思いがけない恐怖に直面する姿を描いた青春ホラー。カナダの映像制作ユニット「ROADKILL SUPERSTARS(RKSS)」(フランソワ・シマール、アヌーク・ウィッセル、ヨアン=カール・ウィッセル)が、1980年代のスラッシャー映画やホラー、サスペンス、青春映画にオマージュをささげて描いた。84年夏、アメリカ郊外の田舎町に暮らす好奇心旺盛な15歳の少年デイビーは、向かいの家に暮らす警察官マッキーが、近隣の町で発生している子どもばかりを狙った連続殺人事件の犯人ではないかとにらみ、親友のイーツ、ウッディ、ファラディとともに独自の調査を開始。しかし、そんな彼らの行く手には、想像を超えた恐ろしい現実が待ち受けていた。(上記同URLより引用)

 

(以下、ネタバレを含む箇所には「ネタバレ」と記載)

 

80年代にオマージュを捧げた青春ジュブナイルスラッシャー映画。

隣人が連続殺人鬼ではないかと疑った少年4人の一夏の冒険が最悪の事態を招いていく様が最悪で最高。

シンセテイストな音楽も80年代らしく、『It』もそうだけど、80年代あたりにオマージュしている作品はどれも懐かしくて恐ろしい。

ドント・ブリーズ』で死にかけた人、たぶん死にかける。

 

後半は正直よくあるサイコホラーという感じが拭えなかったけど、後半までの少年たちのルサンチマンやフラストレーション、「子供扱いされたくない」けど「大人にはなりたくない」という焦燥、暴走していくひと夏の危うい冒険がヒリつくほどに美しく懐かしい

誰しも子供の頃にスパイごっこをしたりしていたもので、それが暴走するとこうも恐ろしい結末になるのか……という背筋が凍る感覚。

邪悪なスタンドバイミーとはよく言ったもので、邪悪なスラッシャー映画と、少年たちの“少年期”にしか存在しえない青春映画の様相がよくマッチしている。

重ね重ね、ラストには消化不良な感じも否めないが、非常に良くできた作品で、ラストも息を飲み続け心臓が苦しくなってしまう。

 

↓ネタバレを含みます

 

ところでラストについて少し言及すると、前半と少しテイストが変わり一見すると陳腐なサイコホラーになりかねないラストにしたのは、あえてその危険を犯しているのではないかと思う。

ラストで隣人が本当に殺人鬼であったことが露見し、主人公たちは隣人に誘拐され、命懸けの鬼ごっこをする。最後に隣人は言う「いまは殺さない。俺がいつか現れることを想像し生きろ、そしてそれはある日現実になる」と。

『It』では、itは完全には消えず、いつかまた少年たちの目の前に現れる。

人は誰しも少年時代に「恐ろしいもの」を抱えて生きている。それは犬や蛇のような分かりやすいトラウマかもしれないし、漠然とした恐怖かもしれないし、ルサンチマンかもしれない。それらを抱え、いつ息を吹き返すかわからないことに怯えたり、時に忘れたり、また思い出したりしながら生きていく。

そういう少年の普遍的イニシエーションをここで分かりやすい形で描いたのではないかと思う。現に主人公は殺人鬼を捕まえたヒーローだと言われても、曖昧に笑うのみで、喜びを見せない。

またこれはおそらく80年代の社会不安と関わっていて、オカルトが台頭した時代、子供は世界に対し漠然とした不安を抱いていたのではないかと。主人公はオカルト好きな少年で、象徴的だ。日本でも80年代(70年代)からオカルトの台頭と社会不安は関わっていたので、外国でもそうじゃないかなあと思うけど(世紀末とか…)、詳しくないのではっきりとはわからない。


ただそう考えればこのラストも前半の青春ジュブナイルスラッシャーとよくつながるのではないか。

いずれにせよよくできた作品だった。またみたい!疲れるけど。

人間の価値は魂そのものに付属するはず

 

人間の価値というものは、その人の魂そのものに付属するはずじゃないかと思う。綺麗事かもしれないが、そうであればいいと思う。

 

京アニの件はあまりに甚大な被害で、迂闊に軽率に「お気持ち」の表明はしたくなかった。だから、冥福を祈る気持ちは勿論当たり前にあるが、なるべく触れないようにはしてきた。迂闊に表現してしまうことが、彼ら彼女らの命の価値に触れるようで、気が引けてしまったからだ。

 

しかしツイッターのみならずマスメディアでの触れられ方を見ていたら、違和感を覚えてしまう。勿論全員心の底から被害者を悼み、悲しんでいることは分かっている。前提として明記しておく。 

 

京アニだから悼むわけではない。被害者がクリエイターだから悼むわけではない。しかしあまりに京アニの実績が輝かしいからか、皮肉にも世間は被害者たちのクリエイターの一面にフォーカスし、被害者たちの命そのものというより輝かしい実績などのクリエイティブな人材を失ってしまったことを悼むような形になってしまっている

京アニに経済的な支援を行うことは大事だ。命は戻らない。せめて私たちにできることは経済的支援だけだ。グッズを買ったり映画や配信を見たりすることが支援につながる。

でもそれが一人歩きしているような印象を受ける。金はあって困らないから、別に「やめろ」なんてもちろん思わないけれど。

重ね重ねだが、金はあって困らないし私たちにできることは経済的支援なのだから、まあ早くてもいいとは思う。アニメイトの募金などは私も協力をしたいと考えている。しかし一方でちゃんと人命そのものを悼むことがどこか置き去りになっている印象を受ける。悲しんでても人は帰ってこない、できることをすべきだ、というのは、1日やそこらで外野が言うのは早すぎるなとも思う。そしてまた、おすすめの京アニ作品をおすすめしたり、またおすすめをしてほしいと望んだり、どこか一部祭のようになっている感も否めない。

まずは命そのものを悼むべきではないかと。命を悼むことと同時にあってこそ、経済的支援は意味を持つはずではないだろうか。

 

わたしは、京アニのニュースが流れた当日、まだ当日であるにも関わらず、被害者の人命そのものでなく「京アニ」であること「クリエイター」であること「若く未来ある優秀な人」であることという付加価値を悼む声が挙がることに、うまく言えない虚しさを覚えた。被害者が京アニの優秀なクリエイターではなく無職ニートの集団だとしても、若く優秀な人材ではなく老い先短い老人であるとしても、本来は同等に悼まれなければならない。しかし現実はそうはならない。

わたし自身もやはり「京アニ」の「クリエイター」である「若い人たち」が無惨に理不尽に命を奪われたことに、悲しみを感じてしまったからだ。

 

障がい者が大量に殺されてしまったとき、果たして世間は世論はこんなに悲しんだだろうか。「肯定はしないけど、やっちゃいけないけど、まあ私には無関係だし」という態度が、「ふつうの人」になかったとは決して言えない。一部心ない言葉がネットには流れ、加害者の言葉を「行為は許せないけど言ってることはわかる」と肯定する人もいた。

被害人数が変わってしまうので正確な比較にならないが、風俗嬢と客がソープランドで火事にまかれ亡くなったとき、世間はこんなに悲しんだだろうか。窓も殆どなく、狭い一室で火に迫られ亡くなっていく恐怖は想像が及ばないほどで、しかし世間はあんなに悼んではくれない。

人の価値は命に付属しないのだと思う。悲しいけれど、それが現状だと思う。

 

重ね重ねになるが、京アニの件でみんなが苦しいほど悼んでいるのは承知の上だし、その人に差別意識があると言いたいのではない。しかし無意識に、無自覚に、人の属性で価値をプラスしていってしまうことは確かにある。

 

京アニの件で、若く才能とやる気があるクリエイターたちを「まだまだ先がある人たちだったのに」「日本文化の損失だ」と真っ先に嘆く人を見ると、「きっと私がいま殺されても世間はこんなに悼まない」ことを実感し、少し苦しくなる。(日本文化の損失に繋がることは事実だと思うが、真っ先に命そのものではなく付加価値を悼む声が出ることに違和感を覚える)

私は若いが、それ以外なにもない。美しくもなければ、世間に誇れる仕事もしていない。前までずっと夜の仕事をしていたが、何も持たない私がなにかしらの原因で店で死んでも、殺されても、たぶん世間は誰も悲しんでくれないのだ。京アニの件はそれを痛感した。

 

人の価値は魂に付属すべきだ。

しかし現状、例えばセクハラを受けた女性の苦しみを理解させるとき、「彼女も誰かの娘で~誰かの姉妹で~誰かの母で~」というよくある台詞がある。誰かの大事な娘、これは恐ろしい言葉だなと思う。誰かの大事な存在でなくても、誰にも愛されていなくても、セクハラや性犯罪は受けるべきではない。その当たり前のことを分かっていながらも、そこに意識の届いていない言葉が流布している。この世の中には誰にも愛されずに育った人はいて、その人たちの肯定感のためにも、「誰かの大事な存在だからダメなんだよ」という古くさい言葉は平成に置いてきたかったなとちょっと思う。

 

これら全ては発言者には当たり前に悪意なんてないし、実際わたしも言いそうになるし、そしてまた発言者を「差別だ!」「配慮が足りない!」なんて切り捨てることは早計すぎるとおもう。

 

人の価値は魂に付属していない。そのことを日々痛感する。

ただそのことを自覚して、我々の価値を我々の魂そのものに付属させていけるよう、頑張っていかないといけないんじゃないかなと思う。それは失われてきた命のためであり、生きてきた命のためであり、生きている命のためであり、いずれ確実に失われる私達の命のためでもある。

いつか私が死んだとき、私の名前も、性別も、年齢も、名字も、肩書きも、仕事も、家族関係も、何もかもが関係なく、誰かに悼んでもらいたい。そんなことが叶えばいいなとちょっぴり思っている。

刀ミュくんはゴジラになりたい

のではないかと思います。

このエントリは以前書いた「髭切膝丸双騎出陣は賛否両論だから意味がある(及び刀ミュのコンテンツ力について)」というエントリを受けた、付属的な内容になります。そこに書き忘れていたことやぼんやり思ったことを追記していこうかと思います。

highb.hatenablog.com

 このエントリは個人的意見に過ぎませんが、投稿ツイートのインプレッションが25万ほど、ブログへのアクセスが1日数万ヒットとなり、思ったより多くの刀ミュや俳優や刀剣乱舞のおたくに読んでいただき、また多くの意見をいただきました。

それらは肯定的意見もあれば否定的意見もあり、やはり双騎は今までで一番賛否両論の舞台だったんだなぁと深く実感しました。

 

話は少し変わりますが、以前『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の映画を観た際、以下のような感想を抱きました。

highb.hatenablog.com

結局そこにあるのはゴジラの多様性ではないかなと思った。
(中略)

楽しめるかは人それぞれだし、「楽しめる人」と「楽しめない人」がいるといういわば偏ったフェチの映画を作ってもコンテンツが成り立つくらい、ゴジラというコンテンツには絶対にぶれない主軸があって、その上で様々な多様性が存在しているんだなと。これってファンからしたらとんでもなく贅沢なことなのでは?私は残念ながらゴジラのファンではないのでよくわからないのだけど、ものすごくゴジラファンがうらやましいなと思った。ぶれないくらいの主軸が、つまりそれ単体で十分なコンテンツ力を持つ推しってちょ~~最高ジャン。
今回のKOMも、あらゆるファンの理想を適度にカバーしつつ無難に……というひよった映画をつくろうとしていたら、たぶんわたしは楽しめたけど、楽しめても楽しみ切れない人が物凄く生まれたと思う。
何かを捨てて何かに専念する、そういう映画をつくる決断をするのはすごく難しいし、作り手にそれを委ねることができるゴジラさんのコンテンツ力はものすごい。国民的ヒーローになってもよいんじゃないだろうか。
私は残念ながらゴジラを楽しみまくれはしないタイプの人間だったけど、そういう人間が出てくることはむしろ、消費者のあらゆるニーズの受容の可能性を浮き彫りにするし、ゴジラにはそういう可能性があるんじゃないかな~と思うと、それを好きなファンが羨ましくなりました。という感想です。

ゴジラKOMはハリウッドゴジラで、また「ゴジラ」というコンテンツは多くの作品が存在します。いわばファンアートのように、多くの人の手によって、ゴジラはそれぞれの解釈と生命を与えられ、スクリーンで生きてきました。シンゴジラはその分かりやすい例で、あれはまさに「ゴジラというコンテンツの多様性」を象徴しているのではないかと思ったり。

私はKOMを「そんなに楽しめなかった」人間なのですが、それゆえこの映画を通して「ゴジラというコンテンツの果てしない可能性」を感じました。何かを捨て何かを選ぶ、賛否が起こってしまうような、何かに偏った作品を作ったのだとしても、それとしてゴジラは成立する。なんでかって、ゴジラにはとんでもない強度があるからです。人間であるならばスター性であるし、作品であるならばコンテンツ力です。

もちろんゴジラには今までの歴史と、多くのファンが存在します。ドラえもん鉄腕アトムと同じ、たいていのコンテンツにはなかなかたどり着くことのできない境地です。

 

双騎を受けて、私は上エントリで以下のように感想を書きました。

新しいことを始めるのは、大原氏の言葉を借りるならば「強度」を手に入れようとしているからだし、その強度とは包括的なコンテンツ力であると思う。
双騎は実験的な場であったが、賛否両論であるということはむしろ刀ミュのコンテンツ力の向上を試みているということであり、賛否両論があるからこそ意味があるのだと思う。

ものすご~~く平べったくわかりやすく言うならば、刀ミュはゴジラみたいな強さを手に入れようとしているんじゃないのかなと思いました。それが冒頭に戻ります。

ゴジラは凄いです。ああも多くの解釈と生命を与えられてなお、ゴジラという強い軸があるゆえに作品は成立します。ゴジラには並々ならぬコンテンツ力があります。

 

刀ミュは刀剣乱舞のメディアミックス作品で、刀剣乱舞そのものではありません。

刀剣乱舞というものを下敷きにし、その上に「刀ステ」「花丸」「活撃」などのメディアミックス作品は成り立っています。そういった様々な派生が存在してなお、刀剣乱舞の世界が揺るがないのは、そもそもの「刀」というモチーフに歴史や逸話を含めた強いスター性、つまり強いコンテンツ力があるからだと思います。(刀剣乱舞が栄えたのにはメディアミックスの力と、キャラクターカタログ的な側面による二次創作の力があるからだと思いますが、話がずれてしまうため今は置いておきます)

そういった刀剣乱舞の上に成り立つ刀ミュは、刀剣乱舞としての強さは持っています。刀のスター性がありますから。でも刀ミュというコンテンツそのものに着目したとき、そこにはまだ強度はありません。刀ミュとしての強度を手に入れない限り、それは「刀剣乱舞の派生」であるという域を脱することはできません。

しかし「派生」の域を脱さないというのは、コンテンツとして「つまらない」と言わざるを得ません。辛辣に言うならば、二流のコンテンツだと思います。

 

刀剣乱舞のメディアミックスはそれぞれのメディアの特性が活かされています。なので刀ミュはネルケの特性を生かしアイドル的要素が取り込まれており、そうして地盤を固めてきました。

これはツイートでも言っていたのだが、泥団子を固く強く美しく光るものにするためには、土以外にも粘土や砂や水が必要だ。
刀ミュおよび2.5において、垢抜けることの重要性は常々言われてきた。刀ミュの脚本御笠ノ忠次さんはいつかブロードウェイで刀ミュを上演したいと語るが、それは単なる夢物語である以上に、垢抜けることの目標を語っている。おなじく御笠ノ忠次さんは、2.5がまだクオリティが低いことを指摘し、演劇としてまだまだ成長していかねばならないことを語っている。
土で固められた泥団子は弱く、美しく輝かない。双騎という新たな要素を取り入れることが刀ミュを強く美しく輝かせることのひとつの契機となることを期待し、双騎は行われたのではないかと感じた。もちろん粘土や砂や水の分量を間違えてしまうと団子は壊れるかもしれないし、鈍く輝くのみとなるかもしれない。

これは双騎のエントリで書いていたことですが、そうして固められた地盤(引用で言う泥団子の土)に、双騎というエッセンスを取り入れたことで、コンテンツ力の向上を図っています。

そのコンテンツ力の向上の行く末の理想がゴジラみたいな存在じゃないのかなぁと思います。様々なコンテンツをぶつけてもなお、「ゴジラ」として確たる存在がある。ゴジラは賛否両論を受け入れる余裕があるくらいのスター性(つまりコンテンツ力)がある。ゴジラはどこまでいっても揺らぐことがない。でも多様なコンテンツになることができる。

先に書いた双騎のエントリでは「コンテンツ力の向上」がぼんやりとしていてわかりづらかった気がするので、具体的な例としてゴジラを挙げてみました。少しの追記です。

【ガチ恋の妄言】推しに抱かれたいけどセックスしたいわけじゃない

と常々思います。思いませんか?思うという前提で行きます。

たぶんセックスがしたいガチ恋の皆さんもいるとは思うのですが、私はセックスをしたいと思わない派なので、セックスをしたいとは思わない「抱かれたい」とは何なのかについて日頃考えています。

 

よく推し(特定の人物ではなく、次元を問わず任意の存在とします)を見てると「抱かれてぇ~~~~~~」と思います。抱かれたいんです。ただここで「セックスがしたいんだね?」と言われると「それは違うんだよなぁ」となります。抱かれたいということはセックスがしたいのかもしれませんが、少なくともセックスその行為をしたいとは思いません。
どこをどうして、ああ触って、こう触られて、みたいな具体的なセックスの手順を踏みたいとは思わない、想像ができない、という意味での「セックスがしたいわけではない」です。

highb.hatenablog.com

ではなぜ「抱かれたい」と思うのか。そのことについて考えてみると、「抱かれたい」には2種類の理由が作用しているのではと思いました。

 

1つめは「シンプルにかっこよくて好き」だから。これは三浦春馬綾野剛を見たときに特別ファンではない人も言ってしまう「抱かれてぇ」であり、わりと普遍的な「抱かれてぇ」ではないかと思います。私も三浦春馬を見ていたらつい言ってしまいます。
これは単純明快な「抱かれたい」ですよね。たぶん。
推しがかっこよすぎて綺麗すぎて好きすぎるので「抱かれたい」になるんですよね。ね、ルルーシュ

 

2つめ。これはみんながそうであるかは分かりませんが、一言でまとめるならば「コネクトしたい」という原因
好きという感情は尊いです。その一方で、「好き」は対象がいないと成立しません。つまり「好き」を抱いた時点で、自分と推しが別々の人間であることを認めてしまうことになります。ジレンマです。「好き」になればなるほど相手に近づきたいという感情は高ぶり(それは物理的な距離とは限りません、好きな人に嗜好などが寄っていくのもその1つだと私は思います)(なお好きな人と距離を置きたがるタイプの人もいます)、高ぶった先に、より近づきたくて「一体化したい」という欲求が出てきます。
少なくとも私はこの「一体化したい」という欲求をよく感じます。うちの愛犬や家族なんかに対しても、愛しくて仕方ないのに別々の存在であることが悲しくてさめざめと泣いてしまうときがあります。

私は無意識のうちに、小説(小説っていうのバリはずいけど)で恋心を表すときに「相手のうなじに手を差し込みたい」と表現することが多いことに気づきました。私にとってよりシンプルに表現しようとしたら、相手のうなじに手を差し込みたいのが恋だということになります。相手の白いうなじに手を差し込むということは、互いが粘土のようにとろけて、そこから彼我の境目がなくなって融合するということ。それを無意識に望むということは、性欲を伴わない形での「抱きたい/抱かれたい」の成立で、これが推しに対しても「抱かれたいけどセックスしたいわけじゃない」という感情を抱くに至っている気がします。たぶん。

 

そしてこの「一体化したい」にも先天的なものと後天的なものがあり、私のようなタイプは先天的に同一化欲求があるんじゃないかなぁと思います。と同時に後天的なものもあり、その原因のひとつに「金で繋がり続けることが虚しい」があるのではないかと思いました。
というのもそのときちょうどホストのエースをしている友達と話していたのですが、彼女は私の話を聞いて「分かる」と言ってくれました。
好きな人間の時間や存在を金で買えるのなら安いものだし、そういったコンテンツに金を出すこと自体に魅力を感じてもいます。が一方で、金という非常に即物的で俗物的なものでしか推しを買えない、推しにコネクトできない、その構造自体になんともいえない気持ちになるときもある。そういった感情が重なって、無条件で推しの中身にコネクトしたい、一体化したい、「抱かれたい」に繋がっていく土壌が形成されていくのではないかとも思います。なんてはた迷惑な感情ですかね。これは一例であって、一概には言えませんが。

 

 

そしてちょびっと思ったのが、2次元コンテンツの中でも特にソシャゲはガチ恋を生みやすいんじゃないかということ(ぼんやり思っただけですが)。


私の推しはソシャゲが生まれる前のコンテンツの男なのでソシャゲキャラではないのですが、私はあんさんぶるスターズを通して「ソシャゲのシステム作ったやつ来世ぜったい人間じゃねぇな」と思いました。それくらい鬼のようなシステムで、マジ最初に考えたやつ人間の心なさすぎだろと思いました。ソシャゲを愛する人がいたらごめん。
とにかく金を徴収する超資本主義的経済ができあがっているのですが、金は執着を生みますコンコルド効果でも分かるように、引き返せなくなります。引き返せなくなればなるほど対象に価値を見いだそうとしてしまいます。ここまで書いたら完全にパチンカスですね。でもソシャゲは、依存性は麻薬、リスクはギャンブルと呼んでいるくらいなので(私が勝手にですが)、実質それらと変わりません。そしてギャンブルと違うのが対象にガチ恋できてしまうということ。対象に価値を見いだそうとした結果、恋が生まれることはありえなくないんじゃないか?
なんてことを昨今のガチ恋ブームのなか思っていました(なんか最近ガチ恋多くないですか?)

 

そのことはまた別の話ではありますが、ガチ恋として生きる以上この「抱かれたいけどセックスしたいわけじゃない」と付き合っていかなければいけないのが難儀だなぁと思います。

 

というのも、結局セックスがしたいわけではないので、目標が叶うことはありません。それよりももっと複雑で難しいことを彼(任意の存在とします)に望んでいます。

好きになればなるほど、相手と別々の存在であることが苦しくて一体化したくなります。抱かれたくなります。でもそれは肉欲で解消することはできないので、永遠に飢えるしかないということになります。そう考えるととんでもない業を背負ってしまったなぁという気にもなるんです。

なのでガチ恋の人に出会ったら優しくしてあげたい。優先座席とか譲ろうと思う。

 

少し話は戻って。

そしてそれらの欲求を満たそうとしたところ、なぜ「抱かれたい」にたどり着くのか。それはやっぱり人間として生きてきて、絶対に交われない他者たちがなるべく深く交わるための方法が「セックス」それしかないと思ってきたからなんだと思います。結局心の本気度を確かめるのが肉体の交わりしかないという風潮は確かにあるし、そういうのを忌み嫌いながらも、結局すり込まれたそれに勝てない。相手の胸に手を差し込んで心臓をわしづかみにできたならそれでいいし、相手の子宮に帰ることができたのならそれでいいけど、現実には不可能だし、カニバリズムを望むようなサイコな発想は凡人の自分にはない。凡人なので結局今まで誰かがなぞった形でしか、自分の欲求の発散方法を見つけられない

ガチ恋の各位に媚びを売るような言い方になりますが、みんなそれぞれ自分にしか抱けない思いを抱いてるかと思います。まあ賛美するつもりはないし、それらは対象が三次元であるならクソはた迷惑な片思いにもなりかねないです。

でもまぁ何にせよ、私は今までの私を作ってくれた彼(任意)への思いくらい自分で表現したいので(「抱かれてぇ」に頼らずに)、思いつくままに自分の思いを文章にしています。妄言を書いているのはそういう理由もちょっとあります。

100年後とかに自分だけの言葉でこの思いとか情念とか呪詛とか恨みとかを彼に伝えられたらいいなと心底思います。

 

 

 

髭切膝丸双騎出陣は賛否両論だから意味がある(及び刀ミュのコンテンツ力について)

双騎についてかなり賛否両論と化しているので、私の今の所感を書き留めておきたいと思います。
結果から言ってしまえば、賛否両論はあってしかるべき、むしろ「賛否両論だからこそ価値がある」のが双騎だったんじゃないかと思っています。

 

まず双騎はおおまかなあらすじとして、膝丸と髭切の2人が曽我兄弟の歴史を演じるというもの。原作にある2人は1部では存在せず、見た目はそのままであるものの、あくまで曽我兄弟として存在している。
この点を受け入れられるかが賛否両論のきっかけとなっていて、受け入れられた人は楽しみ、そうでない人は「源氏が見たかったのに」「これを刀ミュでやる必要があったのか」等の感想を抱いているようです(私の観測範囲内)。

正直これはかなり感想が分かれるだろうなと思った。というのもやはり私も「これを刀ミュでやる必要があったのか?」という点については明確な答えを出せないし、容姿は源氏2人のままであるものの、膝丸と髭切の舞台というよりは、高野くんと三浦くんの舞台であるという印象を第一に受けたからだ。

 

ネタバレを危惧する舞台であるので、内容についての事前の告知はない。ゆえに「源氏が見れる」と期待して行ってしまうと、「なんか思ってたのと違う」となってしまうのが、この賛否両論のきっかけであったように思う。舞台としての出来は申し分なく、2.5としてはかなり高いクオリティであると思う。

この舞台に否定的な立場の人は「ハンバーグを食べにいったら不味いのが出て来た」から否定的なのではなく、「ハンバーグを食べに行ったら寿司が出て来た。寿司もそれはそれで美味しいけど、先に言ってよ。ハンバーグだと思って食べにきたのに」的な状態なんだと思う。これに関しては賛否両論どちらの立場も悪くなく、ただ合う合わないの問題が大きかったんだと思う。

 

そしてその争点となる「これを刀ミュでやる必要があったのか」
「別舞台としてやればよかったんじゃないか」そりゃそうだ。「源氏が見たかったのに」そりゃそうだ。南無三。
他にも「オリジナルの一般舞台も同然の内容なので、結局これを『2.5の境界の打破』として行うことは従来の2.5を茅野さんが恥じていることにはならないか」という意見を目にし、確かにそういった見方もあながち間違いではないと思った。

 「刀ミュでやる必要があったのか」ということを①作中の視点から、②メタ的視点から考えていく。

そのうえで、刀ミュシリーズを通しての演出家である茅野さんのインタビューを読むと、以下のように語っている。

僕はこれまで10 年以上2.5 次元ミュージカルに携わって来て、2.5 次元にはもっと表現の可能性がある、それに挑戦したいとずっと考えてきました。ミュージカル『刀剣乱舞』の公演を積み重ねる中で、その思いはますます大きくなっていきました。今作では“髭切と膝丸の二振りだからこそ出来ること”、“髭切と膝丸にしか出来ないこと”を突き詰めていったところ、このようなまったく新しい形となりました。(https://enterstage.jp/news/2019/07/012400.html)(『エンタステージ』より「『二振りだからこそ出来ること』ミュージカル刀剣乱舞髭切膝丸双騎出陣2019~SOGA~開幕」2019・7・4)

 

本作では、明らかに、本作を語るための言葉として、あからさますぎるほどに「物が語るゆえ、物語」という言葉が用いられる。これは言わずもがな刀剣乱舞におけるコンセプトであり、曽我兄弟の歴史を「物語る」ためには髭切膝丸という刀(もの)でなければならなかったというのが本作の構造だ。

これはわざわざ改めて記すほどのことではない。

そして次、メタ的に見た時に「これって刀ミュでやらなきゃいけなかったの?」問題。否定的な人の多くは、やはりメタ的に見た時にここが引っかかっていることが多いように思える。実際に「曽我物語」を「わざわざ刀ミュでやる必要があったのか」という問いにわたしは明確な答えを出せないし、「面白ければいいじゃん」という人と、「理由付けがほしい」という人がいることだろうと思う。これは考え始めたら無謀で無為な問いであるような気もしてしまう。

ただ賛否両論を覚悟してまで上演した意義はあると感じている。

改めて茅野さんのインタビューの続きを読むと、以下のように語られている。

もう一つ、僕にとってとても大切なのは、2.5 次元ミュージカルが“演劇”であるにも関わらず、演劇界と分断された特殊な世界になっている現状を打破したい、という思いです。2.5 次元は今とても勢いがあり、多くの方に喜んでいただいています。それは非常に嬉しいことで、すごい時代が来たと思っています。ただ、もっと一般の演劇との隔たりを打ち壊したいと思っていて、それは両方に長く携わっている僕だからこそ出来ることだと自負しています。ですから、この公演でそれを実現し、いわば突破口として今後に繋げられたら、と思っています。
そのために今回は、僕が役者時代から憧れ、尊敬してきた先輩である花組芝居加納幸和さんにご出演いただきます。

これは賛否両論どちらの意見の人も目にした文章であると思うが、本作は「2.5の壁をぶっ壊す」的な思想に基づいて作られている。現状の2.5バブルを見ていると、演劇人がその考えを抱くのはごく自然であるし、非常に興味深く有意義な試みであると思う。

次に引用しているのは、演劇ライター大原薫氏のツイートだ。

私は大原氏のツイートに則って双騎を表現するのなら、「古典をぶつけても揺るがない強度のあるコンテンツ」であるというよりも、その前段階、「その強度を手に入れようと必死に足掻いている」作品であったと思う。

私は刀剣乱舞を礼賛するつもりはないが、映画刀剣乱舞において存外高評価が多かったのにも歴史(古典)との相性と、SFとの相性、どちらもマッチングした絶妙なバランスでの脚本であったことに由縁する。刀剣乱舞というコンテンツそのものが、その相性良さという強度と、ほどよく中身が薄らとしている(それ以外にうまく言えない)キャラカタログ的な一面によるメディアミックスの脚本の柔軟さとを併せ持つ、非常にちょうどいいコンテンツだと思う。

そういった刀剣乱舞そのもののコンテンツ力の上に、刀ミュという演劇性もアイドル性も併せ持ち柔軟に展開をしているコンテンツ力が乗っかっている。

加納さんがキャスティングされたのには、もちろん三浦くん高野くんという有望な若手俳優の育成もあり、古典を引き入れる上で欠かせない人材であったという点もあり、舞台の構造として彼そのものが古典のメタファーとなり2.5との融合・打破を表しているのだと思う。

本作は演劇として面白いが、しかしまだまだ面白くなる可能性はある。代表されるのが高野くん三浦くん両名の演技であり、有望な若手であるゆえに、さらに伸ばせる可能性がある。本作ではまだ加納さんの圧力に押し負けていた印象が拭えない(※これは大楽には感じなくなってきたと思う)。しかしそのぶん若手にしか出せない「やってやる」という熱量と、一歩間違えれば先走るような心地よい危うさがあり、曽我兄弟の若き2人の危うさに非常にマッチしている。そういった意味では今しかできない演技で、茅野さんの言う「彼らにしかできない」はこういったことも指しているのではないかと感じた。ぼんやり。つまり双騎はメタ的に見た時に、さまざまな人の存在を加味した、非常に絶妙なバランスの上で成り立っている。

主演2人のそういった足掻きも含め、「まだ完成されていないが必死に強度を手に入れようと足掻いているコンテンツ」であるという感じ方は強まった。

 

これはツイートでも言っていたのだが、泥団子を固く強く美しく光るものにするためには、土以外にも粘土や砂や水が必要だ。

刀ミュおよび2.5において、垢抜けることの重要性は常々言われてきた。刀ミュの脚本御笠ノ忠次さんはいつかブロードウェイで刀ミュを上演したいと語るが、それは単なる夢物語である以上に、垢抜けることの目標を語っている。おなじく御笠ノ忠次さんは、2.5がまだクオリティが低いことを指摘し、演劇としてまだまだ成長していかねばならないことを語っている。

土で固められた泥団子は弱く、美しく輝かない。双騎という新たな要素を取り入れることが刀ミュを強く美しく輝かせることのひとつの契機となることを期待し、双騎は行われたのではないかと感じた。もちろん粘土や砂や水の分量を間違えてしまうと団子は壊れるかもしれないし、鈍く輝くのみとなるかもしれない。

 

刀ミュでやらねばならないことであったかはわからないが、上記のように上演した意義はあったのではないかと感じる。

(また、1部のなかで髭切膝丸が曽我を演じていることを明確にすべきではなかったのかということについて。これは最初と最後の人形のような仮面をつけられたふたりのシーンがそれに該当し、「人形みたいに仮面がつけられている」つまり「何者でもない」つまり「何者でもある」ということであり、ふたりが語り部としての存在であることを示唆しているのではないか。あえて明確に描かなかったのは、髭切膝丸に限らず刀という存在が非常に流動的で可塑的で不確定なものであるというシリーズを通してのコンセプトに則っているのではないか。ただ劇中劇であることが分かりづらかったという人が少なくなかったので明確に描いたほうが良かったのではないか。これは演出上の問題なので、特に深い意図がないのなら、再演ではブラッシュアップの箇所に含めてもいいのではないかと思う。これらはあくまでわたしの個人的感想であり、追記はしておくが、明確な答えではないとおもう。ごめん。)

 

新しいことをすると賛否両論はつきものである。今回賛否両論が出たと言うことは(そして舞台のクオリティへの否定的意見でなく、もっとコンセプトに関する否定的意見が多かったということは)、刀ミュが新しいことをしていることの証明に他ならない。

 私は以下のエントリーで「マンネリへの危惧」を繰り返し書いていた。

highb.hatenablog.com

highb.hatenablog.com

 新作は結びの響始まりの音から1年半後で、らぶフェスや単騎、双騎(当時はまだライブだと思われていた)ばかりで、マンネリ化しやしないかと。

しかし蓋を開けてみれば双騎はライブではなく、まったく新しい形であった。ライブをやれば、人気キャラと人気俳優だし、無理せずがっぽがっぽ興行収入があったに違いない。でもそも安パイの道を捨てた。

らぶフェスが歌合に変わったのも同じことだ。安寧の道を捨てている

それが正しいかは分からない。1年後5年後に「やっぱ双騎あれ刀ミュでやる必要なかったじゃん」という世論が圧倒的になっているかもしれない。それでもなお、新しいことを始めるのは、大原氏の言葉を借りるならば「強度」を手に入れようとしているからだし、その強度とは包括的なコンテンツ力であると思う。

双騎は実験的な場であったが、賛否両論であるということはむしろ刀ミュのコンテンツ力の向上を試みているということであり、賛否両論があるからこそ意味があるのだと思う。恐らく製作陣もそんなこと分かり切っているのではないか。

なので今回受け入れられなかった人も、そういった意見が出てしまうのは恐らく正しいことであるし、どちらの意見も存在して双騎の正当性は立証されるんじゃないかなぁと思う。ぼんやり。

なのでなので他のおたくの無責任な批評には惑わされず、自分に自信を持って感想を言ってほしい。受け入れたから何、受け入れられなかったから何、というわけではない。多様な意見が存在することに双騎の良さはある。断言する。断言しちゃった。

 

◆ ◆ ◆

ちょっとだけの追記です

highb.hatenablog.com