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髭切膝丸双騎出陣は賛否両論だから意味がある(及び刀ミュのコンテンツ力について)

双騎についてかなり賛否両論と化しているので、私の今の所感を書き留めておきたいと思います。
結果から言ってしまえば、賛否両論はあってしかるべき、むしろ「賛否両論だからこそ価値がある」のが双騎だったんじゃないかと思っています。

 

まず双騎はおおまかなあらすじとして、膝丸と髭切の2人が曽我兄弟の歴史を演じるというもの。原作にある2人は1部では存在せず、見た目はそのままであるものの、あくまで曽我兄弟として存在している。
この点を受け入れられるかが賛否両論のきっかけとなっていて、受け入れられた人は楽しみ、そうでない人は「源氏が見たかったのに」「これを刀ミュでやる必要があったのか」等の感想を抱いているようです(私の観測範囲内)。

正直これはかなり感想が分かれるだろうなと思った。というのもやはり私も「これを刀ミュでやる必要があったのか?」という点については明確な答えを出せないし、容姿は源氏2人のままであるものの、膝丸と髭切の舞台というよりは、高野くんと三浦くんの舞台であるという印象を第一に受けたからだ。

 

ネタバレを危惧する舞台であるので、内容についての事前の告知はない。ゆえに「源氏が見れる」と期待して行ってしまうと、「なんか思ってたのと違う」となってしまうのが、この賛否両論のきっかけであったように思う。舞台としての出来は申し分なく、2.5としてはかなり高いクオリティであると思う。

この舞台に否定的な立場の人は「ハンバーグを食べにいったら不味いのが出て来た」から否定的なのではなく、「ハンバーグを食べに行ったら寿司が出て来た。寿司もそれはそれで美味しいけど、先に言ってよ。ハンバーグだと思って食べにきたのに」的な状態なんだと思う。これに関しては賛否両論どちらの立場も悪くなく、ただ合う合わないの問題が大きかったんだと思う。

 

そしてその争点となる「これを刀ミュでやる必要があったのか」
「別舞台としてやればよかったんじゃないか」そりゃそうだ。「源氏が見たかったのに」そりゃそうだ。南無三。
他にも「オリジナルの一般舞台も同然の内容なので、結局これを『2.5の境界の打破』として行うことは従来の2.5を茅野さんが恥じていることにはならないか」という意見を目にし、確かにそういった見方もあながち間違いではないと思った。

 「刀ミュでやる必要があったのか」ということを①作中の視点から、②メタ的視点から考えていく。

そのうえで、刀ミュシリーズを通しての演出家である茅野さんのインタビューを読むと、以下のように語っている。

僕はこれまで10 年以上2.5 次元ミュージカルに携わって来て、2.5 次元にはもっと表現の可能性がある、それに挑戦したいとずっと考えてきました。ミュージカル『刀剣乱舞』の公演を積み重ねる中で、その思いはますます大きくなっていきました。今作では“髭切と膝丸の二振りだからこそ出来ること”、“髭切と膝丸にしか出来ないこと”を突き詰めていったところ、このようなまったく新しい形となりました。(https://enterstage.jp/news/2019/07/012400.html)(『エンタステージ』より「『二振りだからこそ出来ること』ミュージカル刀剣乱舞髭切膝丸双騎出陣2019~SOGA~開幕」2019・7・4)

 

本作では、明らかに、本作を語るための言葉として、あからさますぎるほどに「物が語るゆえ、物語」という言葉が用いられる。これは言わずもがな刀剣乱舞におけるコンセプトであり、曽我兄弟の歴史を「物語る」ためには髭切膝丸という刀(もの)でなければならなかったというのが本作の構造だ。

これはわざわざ改めて記すほどのことではない。

そして次、メタ的に見た時に「これって刀ミュでやらなきゃいけなかったの?」問題。否定的な人の多くは、やはりメタ的に見た時にここが引っかかっていることが多いように思える。実際に「曽我物語」を「わざわざ刀ミュでやる必要があったのか」という問いにわたしは明確な答えを出せないし、「面白ければいいじゃん」という人と、「理由付けがほしい」という人がいることだろうと思う。これは考え始めたら無謀で無為な問いであるような気もしてしまう。

ただ賛否両論を覚悟してまで上演した意義はあると感じている。

改めて茅野さんのインタビューの続きを読むと、以下のように語られている。

もう一つ、僕にとってとても大切なのは、2.5 次元ミュージカルが“演劇”であるにも関わらず、演劇界と分断された特殊な世界になっている現状を打破したい、という思いです。2.5 次元は今とても勢いがあり、多くの方に喜んでいただいています。それは非常に嬉しいことで、すごい時代が来たと思っています。ただ、もっと一般の演劇との隔たりを打ち壊したいと思っていて、それは両方に長く携わっている僕だからこそ出来ることだと自負しています。ですから、この公演でそれを実現し、いわば突破口として今後に繋げられたら、と思っています。
そのために今回は、僕が役者時代から憧れ、尊敬してきた先輩である花組芝居加納幸和さんにご出演いただきます。

これは賛否両論どちらの意見の人も目にした文章であると思うが、本作は「2.5の壁をぶっ壊す」的な思想に基づいて作られている。現状の2.5バブルを見ていると、演劇人がその考えを抱くのはごく自然であるし、非常に興味深く有意義な試みであると思う。

次に引用しているのは、演劇ライター大原薫氏のツイートだ。

私は大原氏のツイートに則って双騎を表現するのなら、「古典をぶつけても揺るがない強度のあるコンテンツ」であるというよりも、その前段階、「その強度を手に入れようと必死に足掻いている」作品であったと思う。

私は刀剣乱舞を礼賛するつもりはないが、映画刀剣乱舞において存外高評価が多かったのにも歴史(古典)との相性と、SFとの相性、どちらもマッチングした絶妙なバランスでの脚本であったことに由縁する。刀剣乱舞というコンテンツそのものが、その相性良さという強度と、ほどよく中身が薄らとしている(それ以外にうまく言えない)キャラカタログ的な一面によるメディアミックスの脚本の柔軟さとを併せ持つ、非常にちょうどいいコンテンツだと思う。

そういった刀剣乱舞そのもののコンテンツ力の上に、刀ミュという演劇性もアイドル性も併せ持ち柔軟に展開をしているコンテンツ力が乗っかっている。

加納さんがキャスティングされたのには、もちろん三浦くん高野くんという有望な若手俳優の育成もあり、古典を引き入れる上で欠かせない人材であったという点もあり、舞台の構造として彼そのものが古典のメタファーとなり2.5との融合・打破を表しているのだと思う。

本作は演劇として面白いが、しかしまだまだ面白くなる可能性はある。代表されるのが高野くん三浦くん両名の演技であり、有望な若手であるゆえに、さらに伸ばせる可能性がある。本作ではまだ加納さんの圧力に押し負けていた印象が拭えない(※これは大楽には感じなくなってきたと思う)。しかしそのぶん若手にしか出せない「やってやる」という熱量と、一歩間違えれば先走るような心地よい危うさがあり、曽我兄弟の若き2人の危うさに非常にマッチしている。そういった意味では今しかできない演技で、茅野さんの言う「彼らにしかできない」はこういったことも指しているのではないかと感じた。ぼんやり。つまり双騎はメタ的に見た時に、さまざまな人の存在を加味した、非常に絶妙なバランスの上で成り立っている。

主演2人のそういった足掻きも含め、「まだ完成されていないが必死に強度を手に入れようと足掻いているコンテンツ」であるという感じ方は強まった。

 

これはツイートでも言っていたのだが、泥団子を固く強く美しく光るものにするためには、土以外にも粘土や砂や水が必要だ。

刀ミュおよび2.5において、垢抜けることの重要性は常々言われてきた。刀ミュの脚本御笠ノ忠次さんはいつかブロードウェイで刀ミュを上演したいと語るが、それは単なる夢物語である以上に、垢抜けることの目標を語っている。おなじく御笠ノ忠次さんは、2.5がまだクオリティが低いことを指摘し、演劇としてまだまだ成長していかねばならないことを語っている。

土で固められた泥団子は弱く、美しく輝かない。双騎という新たな要素を取り入れることが刀ミュを強く美しく輝かせることのひとつの契機となることを期待し、双騎は行われたのではないかと感じた。もちろん粘土や砂や水の分量を間違えてしまうと団子は壊れるかもしれないし、鈍く輝くのみとなるかもしれない。

 

刀ミュでやらねばならないことであったかはわからないが、上記のように上演した意義はあったのではないかと感じる。

(また、1部のなかで髭切膝丸が曽我を演じていることを明確にすべきではなかったのかということについて。これは最初と最後の人形のような仮面をつけられたふたりのシーンがそれに該当し、「人形みたいに仮面がつけられている」つまり「何者でもない」つまり「何者でもある」ということであり、ふたりが語り部としての存在であることを示唆しているのではないか。あえて明確に描かなかったのは、髭切膝丸に限らず刀という存在が非常に流動的で可塑的で不確定なものであるというシリーズを通してのコンセプトに則っているのではないか。ただ劇中劇であることが分かりづらかったという人が少なくなかったので明確に描いたほうが良かったのではないか。これは演出上の問題なので、特に深い意図がないのなら、再演ではブラッシュアップの箇所に含めてもいいのではないかと思う。これらはあくまでわたしの個人的感想であり、追記はしておくが、明確な答えではないとおもう。ごめん。)

 

新しいことをすると賛否両論はつきものである。今回賛否両論が出たと言うことは(そして舞台のクオリティへの否定的意見でなく、もっとコンセプトに関する否定的意見が多かったということは)、刀ミュが新しいことをしていることの証明に他ならない。

 私は以下のエントリーで「マンネリへの危惧」を繰り返し書いていた。

highb.hatenablog.com

highb.hatenablog.com

 新作は結びの響始まりの音から1年半後で、らぶフェスや単騎、双騎(当時はまだライブだと思われていた)ばかりで、マンネリ化しやしないかと。

しかし蓋を開けてみれば双騎はライブではなく、まったく新しい形であった。ライブをやれば、人気キャラと人気俳優だし、無理せずがっぽがっぽ興行収入があったに違いない。でもそも安パイの道を捨てた。

らぶフェスが歌合に変わったのも同じことだ。安寧の道を捨てている

それが正しいかは分からない。1年後5年後に「やっぱ双騎あれ刀ミュでやる必要なかったじゃん」という世論が圧倒的になっているかもしれない。それでもなお、新しいことを始めるのは、大原氏の言葉を借りるならば「強度」を手に入れようとしているからだし、その強度とは包括的なコンテンツ力であると思う。

双騎は実験的な場であったが、賛否両論であるということはむしろ刀ミュのコンテンツ力の向上を試みているということであり、賛否両論があるからこそ意味があるのだと思う。恐らく製作陣もそんなこと分かり切っているのではないか。

なので今回受け入れられなかった人も、そういった意見が出てしまうのは恐らく正しいことであるし、どちらの意見も存在して双騎の正当性は立証されるんじゃないかなぁと思う。ぼんやり。

なのでなので他のおたくの無責任な批評には惑わされず、自分に自信を持って感想を言ってほしい。受け入れたから何、受け入れられなかったから何、というわけではない。多様な意見が存在することに双騎の良さはある。断言する。断言しちゃった。

 

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ちょっとだけの追記です

highb.hatenablog.com